100分de名著 西田幾多郎“善の研究” 第4回「“生”と“死”を超えて」・晩年にたどり着いた「絶対矛盾的自己同一」…


出典:『100分de名著 西田幾多郎“善の研究” 第4回「“生”と“死”を超えて」』の番組情報(EPGから引用)


100分de名著 西田幾多郎“善の研究”[終] 第4回「“生”と“死”を超えて」[解][字]


西田が晩年にたどり着いたのが「絶対矛盾的自己同一」という概念だ。主観と客観、一と多といった一見対立する者同士が実は相補的であり根源においては同一であるという。


詳細情報

番組内容

西田が晩年にたどり着いたのが「絶対矛盾的自己同一」という概念だ。主観と客観、一と多といった一見対立する者同士が実は相補的であり根源においては同一であるというこの考え方は、自らの子供と死別するという実体験を通して獲得したものだという。生と死は一見矛盾しながらもその対立を超えて一つにつながっているものだというのだ。第4回は西田哲学の中で最も難解とされる「絶対矛盾的自己同一」という概念を解きほぐす。

出演者

【講師】批評家・随筆家・東京工業大学教授…若松英輔,【司会】伊集院光,安部みちこ,【朗読】長塚圭史,【語り】小口貴子


『100分de名著 西田幾多郎“善の研究” 第4回「“生”と“死”を超えて」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

100分de名著 西田幾多郎“善の研究” 第4回「“生”と“死”を超えて
  1. 西田
  2. 哲学
  3. 自分
  4. 言葉
  5. 存在
  6. 永遠
  7. 時代
  8. 人間
  9. 研究
  10. 自己
  11. 絶対矛盾的自己同一
  12. 本当
  13. 未来
  14. 過去
  15. 現在
  16. 世界
  17. 矛盾
  18. 人格的生命
  19. 論文
  20. 意味


『100分de名著 西田幾多郎“善の研究” 第4回「“生”と“死”を超えて」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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「善の研究」の刊行後も

西田は
更に 自らの哲学を発展させてゆきます。

そして たどりついたのが

「人間は 矛盾的存在である」
という考え方でした。

そこから 「生と死」
「善と悪」など

矛盾し 対立するものを
乗り越える

「絶対矛盾的自己同一」
という思想が生まれます。

悪戦苦闘の思索の末に 西田が到達した
境地を読み解いてゆきます。

♬~
(テーマ音楽)

♬~

「100分de名著」 司会の…

さあ 後ろから読んできました
「善の研究」も

前回で終わりましたが
いかがでしたか?

まあ 難解な本だったのは
間違いないんですけども

でも 自分の中に ちょっと刺さったことが
いくつかあって

自分は 今
この純粋な経験みたいなことに対して

きちんと
敬意を払えてるかどうかぐらいのことは

考えるようになりました。

そうですね 日常に敬意を。
ねえ。     はい。

指南役の先生 ご紹介します。

批評家の若松英輔さんです。
お願いいたします。

よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。

今回は 何を教えて頂けるんでしょうか。

今日は 彼の生涯ですね

彼の生涯の中で 哲学が
どう深まっていったのかということを

ちょっと 皆さんと考えてみたいな
というふうに思っております。

はい。
では まず こちらをご覧下さい。

「善の研究」の発表から 2年。

大正デモクラシーの時代が到来しました。

西田は 京都帝国大学に赴任。

その後 18年にわたって

三木 清など
多くの哲学者を育ててゆきます。

やがて その哲学は
自己を 「主体」としてではなく

「場所」と捉える
独自の哲学へと発展してゆきます。

一方 大正7年から 相次ぐ不幸が
再び 西田を襲いました。

母親の死 そして支え続けてくれた妻が
脳出血で倒れます。

翌年には
まだ22歳の若さで 長男が亡くなり

三女 四女 六女も病に倒れ…。

必死の看病も むなしく
妻は亡くなります。

存在し 生きることそのものが
「悲哀」であるという その人生観は

やがて 「自己存在の矛盾性」という思想へ
西田を導きました。

そして 昭和14年
論文「絶対矛盾的自己同一」を発表します。

異なるものが 異なるままで
ひとつになる。

それが この世界の姿である。

西田は 「絶対矛盾的自己同一」を
自らの哲学の集大成としました。

う~ん 「善の研究」以降というんですかね
すごい人生ですよねえ。

それが逆に 3夜までに習ったことの
大いなる何かみたいなものが

この人に こう 哲学をさせるという
より哲学をさせる感じにすら

ちょっと 感じちゃいますね。
本当に そうだと思うんです。

哲学をしたくて したっていうのでは
終わらない何かが

やっぱり
西田の生涯にあるんだと思うんですね。

何ものかに 哲学をすることを
よい意味でですけど

強いられてるところが
やっぱり あると思うんですよね。

何か 「善の研究」をまとめた
あの境地なくして

乗り越えられたと思えないような
出来事の数々ですよね。

そうなんですね。

西田が哲学の原点というのは「悲哀」なんだ
ということを言うわけなんですね。

で やっぱり その「悲哀」というのは
西田にとって

やっぱり 言葉にならない何か

言い尽くすことのできない何か
ということなんですね。

8人のお子さんのうち 5人 亡くなって
奥様も亡くなって

何か それこそ「悲しい」みたいな言葉じゃ
言い表せない何かが

ず~っと続くわけですもんね。
そうなんですね。

そういう個人の悲しみが

私たちと西田の出会いの場に
なってるってことなんですね。

ですんで あの 言い尽くせないという
もう一方でですね

他者と深く交わる契機でもある
ということは 私たちは覚えておきたい。

ですので 私たちの苦しみや悲しみも

自分の中じゃ
終わらないんだと思うんですね。

それは もう少しだけ
深めることができれば

そこで 他の人と
出会っていけるんだっていうことは

とても励みになるんじゃないかなと
思いますけども。

そんな中 生み出されたのが
こちらの論理でしたね。

これ あの西田哲学の代名詞とも
言われているほど

有名な表現なんですけれども

「絶対矛盾的自己同一」。

「異なるものが 異なるままで
ひとつになること」とありますが

これ 若松さん どういうことでしょうか?

そうですね 確かに 「ひとつになること」と
いう言い方もできると思いますけども

もう片方で 「ひとつであること」という
言い方もできますね。

私たちは 実は いろんなものを
二つに分けがちですね。

典型的なのは 何でしょう 善と悪とか。
はい。

私たちは これが善で これが悪って
簡単に分けるんですけども

少し考え始めると
そう簡単には言えないなって。

僕から見たら善で
僕から見たら悪だけど

もしかしたら ある人から見たら
それは真逆になる可能性もある。

ですんで 西田の
その「絶対矛盾的自己同一」というのは…

…ということを 私たちに
教えてくれてるんだと思うんですね。

でも すごいですね。

異なるものが 異なるままに
ひとつになるって

ちょっとキーワードっぽいですね。
そうなんです そうなんです。

私たちが 実は そうですよね。
人間 対 人間の関係も 実は そうで

私は私のまま あなたのまま
でも どこかで つながっているって。

そして こんな文章がありましたね。

これ どういうことでしょうか?

初めてだな 「多の一」。 何ですか?

この「多の一」というのと
「絶対矛盾的自己同一」というのは

同じことですね。
同じことを繰り返すわけなんです。

繰り返すという…
深めていくわけですね。

で 「多の一」と言う時に

私たちは 何を「一」にするかということが
まず問題になってくると思うんです。

まずは じゃあ 大いなるもの
というのがあるとしますと。

そうすると でも
それは「多」 すなわち我々ですね。

それと深くつながっている。
不可分の関係にあるんだって。

大いなるものと もう万物は
不可分の関係にあるということが

まず一つ 言えると思うんです。

で ちょっと今度は見方を変えてみると

「一」を 今度
自分の方に引き付けてみましょう。

そうすると 「多」っていうことは
みんなですよね。 大勢。

自分以外のもの全て。
それは 深くつながっているんだって。

自分で分けて考えることはできない。
だから矛盾 違うわけですね。

だから 絶対的に矛盾なんですけども

自己同一 離すことができないのだ
ということでもあるわけなんです。

何か その自分と他人って
まあ 僕は対義語に近いなって思うけど

そうじゃない。

仏教の方の言葉で
「多即一」って言葉があるんです 「多即一」。

「の」って言うよりも 「即」って言った方が
分かりやすいかもしれませんね。

「即」というのは もう
そのままということですね。

ですんで 「私は そのまま人々と
つながっているのだ」という考え方ですね。

これ 具体的に言うと
どういうことですか?

ええ ええ。
そうなんです。

私たちも 人類じゃないってことは
ないわけですね。 ですんで…

それは もう
不可分につながっていると。

これを西田は なぜ思いついたというか
ここに行き着くんですか?

やっぱり 愛するものとの別れですよね。

で 彼にとって やっぱり哲学っていうのが
大変重要だったのは

自分の大事な人が死んだら それで
終わりなんだろうかっていうことを

彼は やっぱり
考えつめていくわけなんです。

で そうじゃないんじゃないだろうかって。
私たちの死は終わりではなくて

何か もう一つの生の
始まりなんじゃないだろうか。

すなわち 死は すなわち
生なのではないだろうかということが

絶対矛盾の自己同一ってことなんですね。

生と死というのが パッと分かれれば
それは矛盾なんかないんですよね。

でも 西田の実感は…

…というのが 西田の深い経験として
やっぱり あるわけなんですね。

現在には
過去や未来が 同時に存在しています。

人間の生死を問題とする時

過去 現在 未来の
「矛盾的関係」を超えた世界が現れると

西田は考えたのです。

ちょっと大事なとこにきてる気がする。
そうですね。

若松さん これは どういうことを
訴えてるんでしょうか。     そうですね。

まず 「過去と未来との矛盾的
自己同一的現在」というんですけど

私たちは 現在にある時 過去と
つながってるのは分かりますよね。

はい はい。
つながってなければ存在しない。

ただ 未来とも つながってますよね。

未来と つながっていなければ
前に行かないですね。

未来からの働きかけ そして
過去からの働きかけっていうのがあって

現在があるんだと。

ですんで 現在だけが単独して
存在してるんじゃないってことは

分かりますよね。 それが 私たちの
この「矛盾的自己同一的現在」。

さまざまなものとの つながりの中で

さまざまな はたらきの中で
存在していますよっていうことなんだと。

最後の 「即ち唯一なる世界に対する」

というところが またちょっと
まとめとして 難しいは難しいですが。

西田が それをどう呼んだかというと

「永遠の今」と呼びました。
はあ~。

これは どういうことでしょうか?

「永遠の今」というと 何か
ちょっと えっと思うんですけど

まさに矛盾的自己同一ですね。

今っていうのは
何か 過ぎ去るような感じがする。

永遠は過ぎ去らない。
ええ。

ですけど 実は 今という時 我々が
今 今 今って感じてくわけですけど

それは 常に深く永遠とつながって
いるんだということなんですね。

ですんで 実は私たちの言う
この時間というものは 「永遠の今」

すなわち 絶対矛盾的自己同一的に
存在してるんじゃないだろうかって

つまり 人間の生死ってものを考える時
そう考えざるをえないというふうに

西田は考えるようになってった
ということですかね。

退官後 鎌倉で暮らすようになった西田。

重いリューマチを患いながらも
筆を置くことはありませんでした。

時代は昭和に入り
日本は 戦争へと突入していきます。

日中戦争勃発の翌年
西田は講演で このように語っています。

世界と己を分けるのでなく

対立や矛盾を乗り越えて
一体化しようという西田哲学は

当時の軍部によって
政治的に利用されてゆくのです。

本当に
やっぱり 時代が迷うっていうのは

そういうことなのかなと
思うんですけど

その否定し続けたものが

悪しき利用の中に
のみ込まれていくというのが

歴史の悲劇でもあるんですよね。

これ あの「多の一」みたいな
考え方をする時に

あの 「一」を自分にするのか
「一」を国にするのかみたいなことで

全然 これ とり方 変わりますよね。
変わってきます 変わってきます。

もちろん変わってきます。

その「の」という言葉を どうとるのかでも。
そうなんです。 おっしゃるとおりですね。

全く曲げられる。
全く曲げられるわけです。

ですので 国というのが 例えば「一」
「多」というのが人民だとすると

もう それは国のためなのだという
言い方もできるわけですね。

あと 今度は別に
「一」を個 「多」を国の方にしてみると

それは 国のために自分が
ということにもなりかねないわけですね。

でも そこにあるものは何かというと

「即」というよりも 何か主従の「従」。
そうですね。

ですんで 似て非なるものなんです 実は。

で 「即」っていうのは
もう本当に分かち難く 結び付いた

もう 我が事として考えていく
ということなんですけども

そこには実は 政治による
力による服従みたいなものがあったと。

戦後も それがゆえに
西田の哲学っていうのは

ある時期まで
大変 批判されるんです 実は。

せっかく みんなのものにできるように

割と こう多様性をもって
書いてることが

それを ぎゅっとして 傾けていくと

国のために死ぬとか
そういうふうに できちゃうんですね。

できちゃうんです。
そこが やっぱり言葉の危うさです。

で やっぱり言葉というのは
力なんですよね。

力なので 力の用い方を間違えると
やっぱり大変なことになります。

で それは今の時代も
やっぱり変わらないので

私たちは その言葉というものを
もう少し慎重に考えていくということも

西田の哲学の歴史から 我々が
学べることじゃないかなというふうに

思いますけど。

ただ 危ない時代ですよ。
危ない時代ですね。

SNSは文字制限があるし
ネットニュースの見出しなんていうのは

雑なら雑なほど みんな見る
という時代だから。         そうですね。

ちょっと怖いですね。
ちょっと怖いですね。

昭和20年 米軍による連日の空襲下で

西田は 最後の力を振り絞って
論文を執筆していました。

「もう 老先も短きこと故

ヘーゲルが イェーナで
ナポレオンの砲弾を聞きつつ

現象学を書いたというつもりで
毎日 決死の覚悟を以て書いています」。

やがて来る この国の大転換も見据え

自身の最後の仕事として
「宗教論」に取り組んだのです。

そして 戦争が終わるのを待たずに
亡くなります。

遺書のように
最終論文が残されていました。

人間は 死を経てなお
大いなる生命に生きる存在でもある。

それを 西田は
「人格的生命」と呼びました。

その「人格的生命」を思惟することで

「真の自己」に出会える。

その西田の哲学は

30代で書かれた 「善の研究」とも
通じるものでした。

いや すごく響いてますよ。
すごく響いてますが…。

難しかったですね。
ですね~。

まず ここですね。 「絶対の
自己否定において自己を有つ」という

これ どういうことでしょうか?
そうなんですね。

この「否定」という言葉を 私たちが 何か
いわゆる 自己を握りつぶすみたいな

そうじゃないんです。 そうではなくて

私が思ってる私よりも
もう少し大きな私がありそうだって。

で 大きな私が開花していくのが
善なんだっていうことになってました。

だから 「否定する」というよりも
「手放す」という感じだと思います。

小さな自分を手放すことによって 本当の
自分を有つということになるんだと。

絶対的経験や 絶対的な自己みたいな
正しい自己みたいなものに

すぐ到達できることじゃないというのは
多分 おっしゃってると思うんですね。

そうなんですね。

ただ 到達できなくても存在してる
ということ。

そこが大事なんだと思うんですね。

僕 やっぱり西田の哲学を読んでて
本当に力づけられるのは

あ もしかして我々は 安心して悲しんだり
安心して苦しんだりすることが

人生には許されてるのかもしれないと
思う時はありますね。

それは
ですんで 本当の自分というのが

そこに やっぱり 我々の
気付かないところで あるからですよね。

必ずあるぞっていう安心感で…。
人と つながっている。

自分が 一人で孤立して生きてない

他とのつながりの中で生きてる
自分というのが

自分の気がつかないとこで
しっかり 自分を支えてもいると。

実際 文章も こう続いていきますね。
ああ そうか。

私たちは 永遠に生きないのではなくて

永遠の世界で生きているんだということを
西田は言いたいんです。

で 私たちが 人は亡くなったら
永遠に生きていないというふうに

考えてる時 その人の考えてるのは
生物的生命だろうというんです。

私たちの この肉体と結び付いている
生物的生命。

しかし 人格的生命というものは
別だっていうわけです。 それは…

…なのではないかというふうに
西田は考えている。

人間が死んでも もしかしたら 何か
私たちの 他者の中であり続けるような

そういう存在のものを
やっぱり 人格的生命って

西田は やっぱり考えてるんじゃ
ないかなと思いますけど。

何か そこに 論文なんだけど
これは論文なんだけど

やっぱり ちょっとね
あの… 泣けちゃうんだよね。

そうですね。
うん。

もし僕が 「西田の哲学をひと言で言ったら
何ですか?」と もし聞かれたらですね

僕は やっぱ
「いのちの哲学」だって言いたいですね。

やっぱり いのちとは何かということを
教えてくれてる哲学なんです。

だから私たちは その いのちを

ないがしろに しがちなんですよね
やっぱり。 さまざまなところで。

そういう時代に 西田の この言葉
というものを やっぱり読み返す意味

特に この現代で
読み返す意味というのは

とても大きいんじゃないかなって
思っていますけども。

表面的な難しさに
まあ へこたれますけど。    そうですね。

こうやって
読み解いてもらったおかげで

ちょっとは 自分のものになったかな
という感じはしますね。

若松さん ありがとうございました。
ありがとうございました。


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