英雄たちの選択「“日出づる処の天子”の挑戦~聖徳太子の外交戦略~」飛鳥時代、遣隋使派遣によって日中外交の扉を…


出典:『英雄たちの選択「“日出づる処の天子”の挑戦~聖徳太子の外交戦略~」』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択「“日出づる処の天子”の挑戦~聖徳太子の外交戦略~」[字]


飛鳥時代、遣隋使派遣によって日中外交の扉を開いた厩戸王、聖徳太子。大国・隋を怒らせた「日出づる処の天子」の国書。その知られざる真相とは?太子の外交戦略に迫る。


詳細情報

番組内容

飛鳥時代、仏教興隆や冠位十二階など、日本の礎となる数々の功績を残したといわれる厩戸王、聖徳太子。近年、膨大な仏典データベースを使った実証的な研究が進み、その事績に改めて光が当てられている。今回は、遣隋使派遣に着目。「日出づる処の天子」で始まる国書が、大国・隋との対等外交を目指したとされてきたが、その真相は?日中外交を切り開くことで何を目論んだのか?古代日本の転換点を生きた太子の外交戦略に迫る。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】吉村武彦,小島毅,萱野稔人,【語り】松重豊


『英雄たちの選択「“日出づる処の天子”の挑戦~聖徳太子の外交戦略~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

英雄たちの選択「“日出づる処の天子”の挑戦~聖徳太子の外交戦略
  1. 聖徳太子
  2. 中国
  3. 倭国
  4. 遣隋使
  5. 言葉
  6. 時代
  7. 当時
  8. 日本
  9. 煬帝
  10. 仏教
  11. 世紀
  12. 影響
  13. 改革
  14. 外交
  15. 日本書紀
  16. 文帝
  17. 研究
  18. 皇帝
  19. 今回
  20. 使節


『英雄たちの選択「“日出づる処の天子”の挑戦~聖徳太子の外交戦略~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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「英雄たちの選択」。

今日の主役は あの…

昭和の時代は お札の顔として親しまれ

「和を以て貴しと為し」で
知られる…

そして…。

色で役人の身分を区別した
冠位十二階など

日本の礎となる数々の功績を
残したといわれる

まさに古代史最大の英雄である。

しかし

その聖徳太子をめぐって

近年さまざまな議論が巻き起こったことは
ご存じだろうか。

2017年。

中学校では「聖徳太子」でなく
「厩戸王」の表記が優先されると報じられ

注目を集めた。

さらに
「聖徳太子はいなかった」という

いわゆる虚構説まで
唱えられた。

私たちが よく知っているはずの
聖徳太子とは

一体 どんな存在だったのか。

今 歴史学以外の専門家も加わり

聖徳太子に新たな光を当てる研究が
進んでいる。

1億5, 000万字に及ぶ
膨大な仏典のデータベース。

そこから浮かび上がった
憲法十七条の知られざる真実とは…。

奈良 斑鳩地域で次々に見つかった
飛鳥時代の道路。

聖徳太子が手がけたという…

そのねらいは何だったのか。

さらに 遣隋使を送り
中国との国交を開いた

太子の外交戦略も
見直されている。

隋の皇帝に
「日出づる処の天子」と名乗り

対等外交を
目指したとされているが…。

…というふうに思います。

今回もスタジオに

さまざまな専門分野の論客たちが集結。

聖徳太子とは何者か語り尽くす。

我々が知ってる…

やっぱり ある種の…

飛鳥時代 古代日本最大の転換点を生きた
聖徳太子。

その実像に迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

そのとき 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回 取り上げるのが この方。

聖徳太子です。

聖徳太子には…

…など いろんな呼び方が
ありますが

今回 番組では
最も なじみのある

「聖徳太子」で 主に
進めていきます。

ということで
番組が始まって6年たつんですが

実は 聖徳太子を取り上げるの
初めてなんですね。    とうとうですね!

取り上げるのは
なかなか この人 難しいんですよ。

何ででしょう?
史料が少ない。

知らない人はいないのに史料が少ない。

実像が分からないことだらけ。

よく 10人の人の話を聞けたとか

馬で富士山を飛び越したとか
いろいろあるわけですよ。

「聖徳太子って いるんですか?」って
聞かれることもあるんですよ。

そうですか。
そうですよ。 あの人は

本当は いないんじゃないかとか。

人によっては 「いや あれは
実質上の 大君ではないか?」。

「いや 実質じゃなくて 天皇だった」
という説を唱える人も いなくはない。

説も いろいろあるんですね。

今回は その聖徳太子の実像に迫ろうと

最新研究を交えて
その存在を解き明かしたい。

では 早速 VTR ご覧いただきますが

実は 今 意外なアプローチで
聖徳太子の実像に迫る研究が

注目されているんです。

聖徳太子に新たな光を当てる研究とは…。

東アジアの仏教史を
専門にしている。

師さんが よく活用するのは

仏教研究で画期的といわれる
あるホームページだ。

これが…

膨大な量の仏教の経典がデータ化され

このホームページから
アクセスできるようになっている。

「大正新脩大蔵経」とは

大正時代から昭和初めに編纂された
仏典の叢書。

2世紀から19世紀まで

インドや中国 日本などの
漢字で書かれた仏典を数多く収録。

1冊当たり 1, 000ページにも及ぶ。

SATに収録されているのは

なんと85巻分。

1億5, 000万に及ぶ文字が
データベースに収められている。

文字検索機能を使えば

その文字が使われた経典を
瞬時に割り出すことができる。

これが聖徳太子について知るうえで
大きな役割を果たしてくれるというのだ。

太子について書かれた古代の史料は

奈良時代に編纂された「日本書紀」など
現在 僅かしか残っていない。

そこで このSATを使い

その僅かな史料に
書かれている言葉を

一つ一つ検索する。

大陸の漢字文化の影響を
強く受けていた当時

日本で使われた
多くの言葉は

中国や朝鮮半島の文献に
由来するものが多いと

いわれている。

太子について書かれた史料も

どんな経典を参考としていたか
という特徴だけでなく

思想の傾向までが
見えてくるという。

…っていうのが分かってくるような
そういう情報になってくると。

我々は よく…

…っていう言い方をしたりするんですが

そういう…

史料が極めて少ないため
今も数々の謎に包まれている聖徳太子。

中でも 近年 話題となったのが

いわゆる
「聖徳太子虚構説」といわれるもの。

一人の有力な王族
厩戸王は存在したものの

聖徳太子として敬われる
輝かしい功績の多くは

後世に作られたものだという説である。

例えば あの憲法十七条も

奈良時代に
「日本書紀」が編纂されたときに

太子の功績として創作され

付け加えられたとされる。

しかし 近年 このSATを使って
憲法十七条について調べた研究では

それはありえないということが
分かってきた。

手がかりの一つは よく知られた第一条。

「和を以て貴しと為し

忤ふること無きを宗とせよ」に
含まれる

「無忤」という字。

これをSATで検索すると
ヒットしたのは

聖徳太子が生きた時代に近い
中国 南北朝時代の僧侶や尼の伝記。

憲法十七条は

この南北朝時代の文献を参考にして
書かれたという推測ができる。

…と呼ばれている
当時 その時代に…

師さんが指摘した「成実論」。

これは 5世紀から6世紀
南北朝時代に流行した仏教書だった。

しかし 7世紀 中国が
唐の時代となったころには否定され

すでに重視されなくなったものだった。

つまり その後 奈良時代になって

すでに否定されていた文献を
あえて使ってまで

憲法十七条を作ったとは考えにくい
ということになる。

…ことにはなるんだろうと思います。

データベースを駆使した研究は

聖徳太子の足跡を
一つ一つ浮かび上がらせようとしている。

さらに 聖徳太子が
飛鳥時代 どのような存在だったか

これまでの考古学の成果からも
明らかにされている。

奈良県 明日香村には

飛鳥時代に建立された日本最古の寺院
飛鳥寺がある。

南北300m 東西200mの敷地に立ち並ぶ

壮麗な伽藍。

当時 朝鮮半島から最先端の技術を持つ
工人たちを招いて造られた

巨大な寺院だった。

飛鳥寺を建てたのは 蘇我馬子。

大臣として50年以上 4代の天皇に仕え

蘇我氏の黄金時代を築いた大豪族である。

馬子は 聖徳太子と共に
仏教の力で国を治めることを目指し

その足がかりとして飛鳥寺を建立した。

昭和32年 飛鳥寺の跡地から

屋根の軒先につけられた瓦が発見された。

中央に5つの点が刻まれ

その周りには
花弁が9つあるという特徴を持つ。

これは 百済から来日した瓦職人が
使っていたデザインだった。

実は これと同じ文様の瓦は

聖徳太子が607年に建立したとされる

斑鳩寺でも使われていたことが
分かっている。

古代の瓦を研究する清水昭博さんは

瓦から この2つの寺の関係について
考察している。

この2つの瓦はですね いずれも

同じ木型を
使ったものですので

文様が
完全に一致いたします。

こちらの拓本をですね
2つ合わせますと…。

このような形でですね
文様が一致するというのが

お分かりいただけるかというふうに
思います。

文様の一致。

それは 飛鳥寺と斑鳩寺の建設が

同じ職人たちによって手がけられたことを
意味する。

火災で 一度焼失し
現在の法隆寺となった斑鳩寺。

建立された当時も 飛鳥寺に匹敵する
寺院だったと推定できるという。

ですから 本当にですね…

歴史学だけではない
さまざまなアプローチによって

聖徳太子の実像に迫る試みが
続けられている。

さまざまなゲストの皆さんに
お集まりいただいています。

お願いいたします。

聖徳太子 萱野さん
どんな人物だったと考えますか?

私の世代だと

一万円札のお札の顔っていうイメージ
やっぱり 強いんですよね。

何で これが
一万円札に載っているのか

当時ですね。

和を大事にした
ということで

載ってるんだ
っていうふうに

いわれてたんですよ。
和って何なのか。

つまり みんなで話し合って
民主主義を運営していくんだと。

そこには 和が必要なんだと。

そのために この聖徳太子は

一万円札に載ってるんだっていうことを
いわれてたんですよね。

私は そういう
ずっと イメージだったんですよ。

私が ちょうど 中学か高校ぐらいのときに
一万円札のお札が

福沢諭吉に替わったんですよ。

それも私にとってはですね

もう 和の時代じゃなくなったのか
っていうふうに思いましたよね。

和で運営されるんじゃなくて
例えば じゃあ 何だろう。

個性なのか多様性なのか
分かりませんけれども

そういうインパクトも
やっぱり ありますよね。

小島 毅さん
中国の思想史がご専門ということですが

今のVTR ご覧になって
いかがでしたか?

私は思想史の研究者なので

ふだん
聖徳太子に対する興味関心としては

後の時代の人たちが

聖徳太子を
どう語ってきたかなんですね。

「日本書紀」の中において

そうした憲法を定めたりした
国政を整備した人。

そして 仏教教団の中で
仏教を我が国に本格的に広めた聖人。

あるいは 江戸時代の儒学者になると
それを裏返して

我が国に仏教などという
けしからんものを広めた国賊的な人物。

そして 明治時代になって また再評価が
別の面で進み 現在に至る平和

「和を以て貴しと為す」という憲法を
作った人というように…

…というふうに
私は ふだん思ってきたわけです。

日本の古代史がご専門の吉村さんは

聖徳太子について
どのようにお考えですか?

非常に有名な人なんだけれども

よく分からないところが
実は多いんですね。

結局 聖徳太子の没後に

神格化といいましょうか

太子信仰の影響があって

「日本書紀」には 事実を
そのまま書くという

そういうことでは
ないんですね。

ですから 言葉を変えると

「謎だらけ」っていうことにも
なるんですけれども。

古代の人物を考えるときに

顔が見える人と見えない人っていうのはね
これ また違うと思うんですよね。

聖徳太子は少なくとも この
「唐本御影」っていうやつですかね。

それが基になって
紙幣が出来るんですけれども

それでイメージしやすいわけですね。

ただ 肖像自体は
これは100年ぐらい…

100年ぐらいたってから
描かれたやつなので

本当かどうかは分からないと。

皆さんが考える この…

これは そのとおりだろうって
僕は思うんですけどね。

でも それだけに
僕は ロマンが かきたてられる面も

あるんじゃないかと。
ああ… ロマンですか。

いろんなね 解釈があるのが

聖徳太子なのかなって
ここまでも分かります。

磯田さん どう思いますか?
皆さんのお話も聞いたうえで。

僕 よく学生に聞かれるのが

厩戸皇子っていうけれど
あれはキリストの生まれた伝説と

関係があるのかないのかって
よく聞かれる。

でね 私はね まあまあ 否定はしないけど
もう一つ 考えたほうがいいのは…

…だったんだと思うんですよ。 なので
うまうまコンビっていうことをね…。

そっちのほうから
生まれ年説のほうから

考えることのほうが 現実的かもしれない
というような話もして。

ここで大事なところが…

二人三脚で政治を執ってた状態であった
ということが

まあ 非常に 要するに…

皆さんの それぞれの聖徳太子像
本当に いろいろあると思うんですが

今回は 主に 外交に焦点を当てて
聖徳太子の実像に迫っていきます。

飛鳥時代
聖徳太子が政治の表舞台に立ったのは

二十歳を迎えようとするころだった。

592年 聖徳太子の叔母にあたる
推古天皇が即位。

「日本書紀」によれば
その翌年

聖徳太子は 推古天皇の
実務を補佐する

皇太子に
取り立てられた。

太子は 大臣の蘇我馬子と共に
大和朝廷の中核を担い

新たな国造りに
着手することとなった。

まず手がけたのが
594年「仏教興隆の詔」。

「三つの宝」と呼ばれた「仏・法・僧」の功徳を
国中に広めることを目指した。

同じころ 太子は 馬子の飛鳥寺にならい

大阪 難波に みずから寺院を建立した。

四天王寺である。

聖徳太子の出発点。

それは 馬子と協調して

当時 倭国と呼ばれた日本を仏教の力で
治めようという新しい政治だった。

しかし ちょうど そのころ

海を隔てた大陸では
動乱の時代が始まっていた。

581年 中国北部に
「隋」という王朝が誕生。

その後 隋は589年に
南朝の「陳」を制圧し

中国に300年ぶりの統一王朝を
樹立したのである。

隋の初代皇帝となったのは
文帝。

文帝は律令を整備するなど
統一王朝にふさわしい

中央集権化を
推し進めていった。

現在の中国 西安に 大興城を建設。

東西10km
南北9kmに及んだ巨大な都城は

城内に54に区画された町並みが
整然と広がり

かつてない威容を誇っていた。

文帝は都の中に国立寺院 大興善寺を建設。

ここを 仏教興隆の中核に据え
多くの僧侶を集めた。

さらに 全国100か所以上に
釈迦の遺骨を納めたとされる

舎利塔と呼ばれる建物を造った。

仏教の精神を
隋全土に広めようとしたのである。

巨大帝国 隋の誕生。

これに脅威を感じた 百済 新羅などの
周辺諸国は

早速
使節を送り 外交関係を結ぼうとした。

しかし 一方の倭国は

中国と100年近く
外交関係が途絶えており

この状況を静観していた。

こうした中 598年

朝鮮半島最大の国 高句麗が動きだした。

隋と国境線をめぐって争いとなり
隋の北東部に攻め入ったのだ。

これに文帝は激怒し

陸海30万の軍勢で
高句麗に反撃を開始した。

この出来事が
倭国に大きな影響を与えたと

古代の日中関係史を研究する
河上麻由子さんは語る。

…というふうに思います。

倭国が感じた外圧。

それに押されるように
600年 ついに隋に向けて

およそ100年ぶりとなる使者を送った。

第1回 遣隋使である。

こうして 倭国と 巨大王朝・隋との外交が
始まることになった。

隋の歴史を記した「隋書」によれば
大興城に赴いた遣隋使は

皇帝 文帝に謁見し

倭国の風習を
こう述べたという。

「倭国では 政を行うのは夜。

そして 日が出れば政をせず 休む」
というものだった。

これに対し 文帝は こう答えた。

「大変 道理に合わない
やり方だ。

そんなやり方は
改めるべきだ」。

…を述べたところだと思います。

道理に合わないようなことを
やっている国っていうので

そのランクとして かなり下のほうに
されてしまうという感覚で…

…ということだろうと思います。

屈辱的な結果に終わった遣隋使外交。

しかし このことが以後 倭国の改革の
原動力になっていくのである。

ということで 最初の遣隋使は
失敗に終わってしまったわけですが

小島さん このとき この東アジアで
隋の存在っていうのは

どれほどのものだったんでしょうか?

非常に強い中華王朝が出来たわけです。

で 隋は中華王朝としての自負を
持っています。

隋の皇帝は
「是に於いて訓えて之を改め令む」。

教えるんですよ。
「訓」なんですよね。

武力でやっつけるんじゃなくて…

教化するという面が
やはり 中華の皇帝にはあるわけですね。

中国には古くから
「華夷秩序」という考え方ですね。

「中華」と「夷狄」。
先ほど VTRの中にも

諸国をランクづけするという
言い方がありましたが

自分の所が世界最高であり

その文明の中心から
見たときに

周辺にいる異民族たちは

自分よりも下に位置づける
そういう考え方があります。

隋は 統一王朝になりましたので
これまた非常に強く持ちました。

加えて 南北朝時代に
南朝の領土では農業生産力が上がり

経済的に豊かになっていました。

隋は それを のみ込むことによって

非常に強大な国力を
手に入れたわけですね。

ということで この7世紀初めの時点で

隋は 当時の世界最強の国家です。

西アジアやヨーロッパを見渡しても

これだけ強大で
富に栄えている国はありません。

まあ 当然 そこと…

萱野さんは どう考えますか?
この状況における関係というのは。

巨大な帝国が出来たんで
それが高句麗と戦争しだすってことで

外圧なんじゃないかっていう見方も
成り立つと思うんですけども

私 必ずしも そうでもないんじゃないか
っていう気もしますよね。

むしろ日本は それこそ 朝鮮半島を挟んで
海で隔てられてますから。

むしろ…

そんな印象もあるんですよね。

隋という大国が出来たから
ようやく これで

実りある生産的な外交関係を
結べるだろうということで

100年ぶりに派遣したと。

萱野さんが言われたことは
非常に大事だと思うんですが

海の向こうであると。

これは
中国にとっては非常に大きなことで…

逆に言うと 海の向こうから

わざわざ 使節が来るということは…

…格好の意味合いもあったんです。

中国にしちゃあ ありがたいでしょうね。

中国皇帝の徳になびいて…

あんな所からっていうんで わりと野蛮に
書きたい意味合いはあるかもしれないね。

吉村さんは その当時の倭国って
どんな時代だったと考えますか?

ちょっと前から
説明したいと思うんですけれども

5世紀の 倭の五王の時期に

当時の倭国と宋との関係が
あったわけですね。

「讃」「珍」「済」「興」「武」という

5人の王様
なんですけれども

最後が 武で 雄略天皇…

「日本書紀」「古事記」では
「雄略天皇」なんですけれども

6世紀になってきますと
いわゆる 継体天皇といいますか

即位するということになるんですね。

一部の研究者では「継体・欽明朝の内乱」

というような言葉もありまして

国内が乱れてるっていうか
争いがあったという

そういう考え方が
あったわけですね。

それと 中国でも
分裂してたっていうことがあって

それほど 周辺国に対する影響力は
僕は なかったのではないかと。

だから
倭国の事情と中国の事情がありまして

6世紀は もうひとつ
そういう外交関係が

途絶えてたのではなかろうかと
思うんですけどね。

それで この隋が建国してから

先ほど言われましたように
600年に派遣するわけですね。

さあ 1回目の遣隋使の失敗を受け

聖徳太子は ここから さまざまな改革に
挑んでいくことになります。

その後 倭国は どう変貌を遂げたのか。

奈良県 明日香村に
それをひもとく手がかりが残されている。

こちらが…

明日香村の雷丘の東で見つかった…

墨で…

…と書かれている。

小墾田宮とは
603年 推古天皇が新たに造った宮。

聖徳太子と蘇我馬子が ここで政を行い

奈良時代には離宮として使われたという。

飛鳥資料館には 発掘成果に基づいて

当時 南北2km 東西1kmにわたって
広がっていた飛鳥の中心部が

模型として復元されている。

その一角を占めた小墾田宮は
重要な役割を担っていた。

ちょうど この辺りに 正殿の前に
庭が見えますけれども

これが小墾田宮のときの

朝庭ということになってきます。

これは…

小墾田宮には 天皇の住居だけでなく

中央に「朝庭」と呼ばれた庭を設けた。

このスペースを使い

外国からの使節を
迎えようとしたのである。

当時 中国でも多く採用された構造で

それを意識して造られたと
考えられている。

やはり そういう…

まず その…

…という感じですかね。

これを契機に 聖徳太子は
次々と新しい政策を打ち出していった。

小墾田宮移転の2か月後に制定したのが
「冠位十二階」である。

役人の服や冠を色分けし
12の位階で序列づけたもの。

それまでの家柄重視から
能力重視の身分制度へと変化したのだ。

国内向けの政策とされる冠位十二階。

しかし 背景には
外交政策も深く関わっていたと

古代の服飾を研究する
武田佐知子さんは言う。

…に なってきたんだと思うんです。

中国に近い…

…というふうに
思うわけなんですけども。

武田さんは 冠位十二階は 色だけでなく
服装にも着目すべきだという。

このとき取り入れられたのは
スカート型の衣装。

これは 昔から 中国の役人が
朝廷に出仕するときの正装であった。

一方 朝鮮半島ではズボン型が主流だった。

外交の場で 倭国は
スカートを着用することで

中国の文化を理解していると
アピールできたのだという。

それで…

…と思うんですよね。

さらに 小墾田宮造営から僅か2年。

聖徳太子は
みずからの宮として建てた斑鳩宮に移住。

宮の西側には斑鳩寺を建てた。

斑鳩宮は

飛鳥の中心部から
およそ20km離れた

大和川の流域付近に
位置しており

陸路だけでなく
船でも行き交うことができた。

なぜ 続けて宮を建てたのか。

長年 斑鳩を調査してきた山川 均さんに
伺った。

恐らく…

…と思います。

聖徳太子は
2つの都を大河で結んだ中国にならって

土地開発を行ったのだという。

さらに 太子は
2つの宮をつなぐ道を整備した。

それは「太子道」として
現在も残されている。

山川さんは 実は この太子道にも

聖徳太子の緻密な計算が
込められていたと考えている。

ここは 今に その一部が残る太子道と

後に造られた国道との分岐点。

太子道には ある特徴があると
山川さんは言う。

この北側の道は…

22度の傾斜とは 小墾田宮と斑鳩宮を

最短距離の直線で結んだ際に出来る

角度だった。

さらに 山川さんは 斑鳩地域でも

同じ時代に造られたと考えられる

22度 傾いた遺構を
数多く発見した。

このことから 山川さんは
斑鳩宮を中心に 街全体に

整然とした土地整備が
行われたのではないかと考えている。

太子道によって
最短距離で結ばれた2つの宮。

さらに 斑鳩宮は難波まで

大和川や陸路でもつながり

港と飛鳥の中継地点に位置していた。

聖徳太子の土地開発のねらい。

それは 外国からの使節や物資 情報を

いち早く飛鳥の都へと届けるという

外交を意識した政策だったのである。

こういった開発などを見ておりますと…

この辺りは…

中国を意識した改革を
次々と推し進めた聖徳太子。

いよいよ 満を持して
2度目の遣隋使派遣に挑むこととなる。

聖徳太子は 隋にならって
さまざまな改革を打ち出しました。

萱野さん この改革
どのように ご覧になりましたか?

私が注目したいのは

いわゆる道路整備
インフラ整備の部分ですよね。

インフラ整備って
ものすごくいい方法なんですよね。

これだけの土木工事 建築工事を
できるんだということで…

私は 外交的にも…

そこを結び付けたというところが 一つ

聖徳太子の大きな功績だったんだろうなと
思いますよね。

小島さん いかがですか?

隋は 当時 世界最強の国家です。

そして 東アジアにおいて

日本 倭国にとって
知りうるような国々というのは

皆 隋を中心にしている。

半島諸国も隋をモデルにして あるいは
それ以前から中国をモデルにして

国造りをしているわけですから…

ですから 自分たちが…

…ということになったんだと思います。

そういうことによって…

そういうアピールだったと思いますね。

吉村さんは この聖徳太子の改革は
どのように見ましたか?

ちょっと 時代幅を広げて
考えてみたいと思うんですけれども

実は 日本で 古墳時代という…

いわゆる飛鳥時代に
変わった時期なんですね。

つまり 前方後円墳によって

天皇も含めて 豪族たちを
秩序づける世界から

次の新しい時代に
どうも変わりつつある時代なんですね。

日本語で言いますと…

当時は 官司制って言いますけども

今の言葉で言うと
官僚制的なですね… 道に行く

僕は 途次ではなかろうかと。

そうしますと 当然 服装が どうのとかね
冠が どうのこうのとか…。

そういうので 官位なんかによって
やるわけですけれども。

ただ 遣隋使を派遣することによって

日本の外交儀礼と違って中国の場合には…

だから 僕は…

先ほど
萱野さんも言われましたけれども

やっぱり 両面があると思うんですね。

だから 外交面が 恐らく内政に
いろいろ影響してくるし

内政のことが また 外交に影響してくる。

そういう時代ではないかっていうぐらいに
思うんですね。

では 聖徳太子が行ってきた…

例えば
どうやって建物を造るとか 服装とか

そういう改革は 隋をならってきた
っていう話をしてましたけど

倭国の独自のものは
なかったんでしょうかね?

例えば
瓦ぶきになるのは お寺なんですよ。

ところが 王宮は やっぱりね
瓦ぶきにしないんですよ。 しないですね。

これは 草ぶきと茅ぶきなんですね。

ですから やっぱり
日本的伝統の宮を造りながら

寺院だけ瓦なんですね。

だから そういう分け方は
ちゃんとしてるみたいですね。

だから 天皇が住む所は やっぱり

瓦ぶきじゃなくて茅ぶきなんですね
草ぶきの所である…。

自分たちの王が住む所は やっぱり

旧来どおりで やっているということに
なるんでしょうかね。

これまで見てくると 聖徳太子って

後の時代に律令制度をやることの

何か やっぱり 小さな社会実験をやった
形跡っていうのが うかがえますよね。

例えば 土木工事でいえば

後に条里制といわれる 縦 縦 横 横 の
圃場整備… 農地 道路整備。

あと 仏教を中心にした寺を
建てるっていうものであるとか

あるいは… そうです
十七条の憲法にみられるように

服務規程ですよね。

成文化された 文字になった
服務規程だとか。

やっぱり ある種の 聖徳太子社会実験。

それが 恐らく プレ律令っていうかね
何か それは やっぱり…。

どうも痕跡は
いっぱいあるような気がしますね。

では 数々の改革を行い
国の形を整えた聖徳太子は

いよいよ 2回目の遣隋使の派遣に
踏み切ります。

第1回 遣隋使の失敗後
改革を進めた聖徳太子。

607年 ついに
2度目の遣隋使派遣に踏み切った。

隋へ向かったのは
小野妹子を筆頭とし

僧侶数十人を伴った
使節団だった。

妹子らは 文帝の跡を継いだ…

…と対面することになった。

隋の歴史が書かれた…

ここに そのときの様子が
詳しく記録されている。

煬帝に謁見した妹子らは
一つの書簡を手渡した。

それは あの有名な文章で始まる。

その文言を見た煬帝は こう反応した。

煬帝は役人に対して

「野蛮国が書いた
こんな無礼な書簡を

二度と私に奏上するな」
と言ったのだ。

煬帝は
中国皇帝を表す「天子」という言葉を

小国の倭国が用いたことに

不快感を示したとされる。

この書簡から 第2回 遣隋使は

倭国が隋に対等な関係を迫る
挑戦的な外交として知られてきた。

しかし 河上麻由子さんは

「隋書」を より深く読むと
別の見方が見えてくると指摘する。

河上さんが
注目したのは
「隋書」の中で

妹子らが手渡した
書簡の記述の前に
記録されている

使者が煬帝に向けた
発言であった。

これは 妹子らが
書簡を渡すときに

煬帝に語った言葉である。

菩薩とは…

まず 妹子らは煬帝を
「菩薩天子」と称賛したのである。

…ということが書かれています。

このことから考えれば…

…というふうに思います。

さらに 河上さんが着目したのは

使者が語った…

…という言葉。

これと同じ言葉が

煬帝の父 文帝の時代に編纂された
中国の書物に

数多く記されていた。

「重ねて仏法を興す」とは

初代皇帝 文帝みずからも
頻繁に使用した言葉だった。

倭国の使者の発言には

都に大寺院を建立し
隋全土に舎利塔を造って

仏教を国の礎にしようとした皇帝への
畏敬の念が

込められているというのである。

相手が よく使った言葉を使うことで

よく 私たちは…

それを踏まえて 倭国は…

そういったスタンスを

この使者の発言に込め

強調したのだと思います。

書簡の文言では不快にさせたものの

隋の国柄を
きちんと学んでやって来たことを

倭国は最大限にアピールした。

それが功を奏したのか 煬帝は

前回の遣隋使とは違い
倭国に関心を示した。

翌608年
倭国の実情を知るために

使節を派遣した。

裴世清の一行である。

倭国は 大国 隋からの使節を歓迎した。

裴世清たちは
倭国の玄関口 難波の港に入り

太鼓 笛の演奏で もてなされた。

その後 斑鳩宮を通り 太子道を通って

小墾田宮まで至ったと考えられている。

そして 煬帝からの国書が手渡された。

煬帝は 遠路はるばる倭国からやって来た
遣隋使の忠誠心を褒めたたえた。

倭国が
大国 隋から認められた時であった。

屈辱の第1回 遣隋使から8年。

聖徳太子の努力は
ここに ようやく実を結んだのである。

その後も 遣隋使は続き

618年 隋から唐に王朝が交代したあとも

遣唐使として引き継がれた。

飛鳥時代から奈良時代へ
古代日本の礎となった中国との交流。

遣隋使は その扉を開いたのである。

2度目の遣隋使が
皇帝 煬帝に渡した書簡。

倭国が対等外交を迫るものだと
考えられてきたんですけれど

むしろ 遣隋使は 隋へ最大の敬意を

表していたのではないかという
VTRの内容でした。

確かに 面白い解釈ですよね。

僕らのころは あれは
対等に言ってるんだって 完全に

学会も そういうふうに言う人が
特に昭和なんかは多かったんですけども

だんだん違ってきて。

ただ やっぱり
「天子」ってのは言ってますよね。

あれは やっぱり
すごいなと思うんですね。

本当は 一番
中国が反応するところなんですけど

虎の尾を踏むようなところを
書くわけですよ。

ちょっと ねえ?
すごい上級の天子みたいな

そういうふうなことは言っているので。

隋のほうからすれば
怒ったっていうよりは

野蛮で知らないやつだな

こいつら教えてやんねえと
だめだなっていうような

何か ちょっと圧倒的強者からする…

…みたいな感じで ひょっとしたら
文脈は捉えたほうが

いいのかもしれないですよね。
ああ…! そうですか。

萱野さんは この外交政策
どういうふうに思いましたか?

「天子」という言葉は使ってますけど

「菩薩天子」っていうふうにも
言ってるわけじゃないですか。

「重ねて仏法を興す」とも言ってる。

…という印象を私は持ちますよね。

例えば 仏教が 国際… 当時の東アジアの
国際関係の共通言語だということを

私たちは分かってますよ。

その普及のために 隋の天子が
ものすごいことをしてます。

それを 私たちは
そこの国際関係の一員として

お目にかかりに来ましたよっていう形で
あいさつをしてますから

相当へりくだった外交なんじゃないかなと
私には思えますよね。

吉村さんは どのように考えますか?

史料上から見ますと「日本書紀」も「隋書」も
同じなんですけれども

使者の言葉
使いが話した言葉というのと

文字で書いた「国書」っていう
2つあるんですよ。

ですから つまり あいさつ言葉と文字で
書かれた文章を

どう天秤にかけて見るか
というところでね。

あいさつするときに こうやって
持ち上げて書いてる史料は 文書は

厳しいっていうことだって
ありえるわけですね。

ある意味で僕は したたかかな
っていうふうにも思うんですけどね。

あとで残りそうなもののほうにはね
何か

自分らの地位が上がるようなこと
書いといてね。

だから 対等っていうよりかは
対等の称号を使うという

まあ 強がりっていうか

そういうところは 僕は認めてもいい
というふうに思うんですけどもね。

隋の側からは この遣隋使って
どう受け止めていたんでしょう?

この「国書」も 煬帝はそれを読んで
喜ばなかった。

「喜ばず」って書いてあるでしょう。

「怒った」とかですね
「その手紙を引き裂いた」とかですね

そうは書かれていない。
不快になった程度なんですね。

それを 「鴻臚卿」という
外務大臣にあたるような人ですけども

その役人を呼びつけて こう言ったと。

もしくは「有れば」だと思うんですが…

つまり まあ 今回はいいと。

でも 今後 野蛮な連中が

こういう中国の書式にかなわないような
国書を持ってきたら

お前 俺に取り次ぐんじゃないぞ。
突き返せと。

突き返すか あるいは もう いちいち…
俺に少なくとも見せるなと。

今回は見ちゃったし まあ 見たけども。

それを しかも
今後のことで言ってるんですね。

「再び また以聞するなかれ」と
言っているので。

今までのように これ 煬帝が

聖徳太子の対等外交政策に
怒ったとかってのは

私は ちょっと 文脈が違うんじゃないかな
という気がしますね。

遣隋使の派遣は
その後も続いたといわれていますが

吉村さんは この古代の日本に
どういう影響を与えたと考えますか?

やっぱり 遣隋使によって
留学生とか留学僧が行きますよね。

そうしますと やっぱり 仏教の理解も
深まるでしょうけれども

特に留学生なんかは
当時の やっぱり 随の国を見て

特に 律令とかですね
やっぱり 法治国家だっていう

認識をするわけですよね。

これは ちょっと いろんな考え方
あるかもしれませんけれども

隋あるいは唐の帝国の周辺でも…

結局 なぜかっていうと
プリミティブな社会で

まだ制度も何も はっきりしないから

実は 一生懸命 導入して
やろうとするわけですね。

だから そういうことも含めて

新たな社会を目指してきてるってことは
間違いないのではないかと。

そういう意味においては
この7世紀の初頭の時代は大きかった。

だから 僕は よく…

…って言い方するんですけれどもね。

…であることは間違いない。

遣隋使が 日本に与えた
影響っていうことでいいますと

私は 遣隋使そのものよりも この…

…だと思うんですね。

「日本書紀」の中で

隋の皇帝から
言ってきた 手紙の中の言葉として

「朝貢」という言葉が使われていますが

「日本書紀」では一貫して それこそ

対等的な外交を目指すために

「朝貢」という言葉を使っていない。
避けているわけです。

言い換えると…

もしかしたら だから これは
遣隋使の そういう意味での

影響なのかなと思います。

そうした流れでいいますと

はっきりと「朝貢」と称して
使節を送った人が15世紀に出てきます。

足利義満です。

この足利義満に対する

そのあとからの
非難ごうごうたる源流のところに

この聖徳太子の時代の政府が
目指していた

外交の在り方っていうのが
あるのかなと。

少なくとも 日本が
それまで ずっと今に至るまで

何か こう 中国との関係で
ぎくしゃくしてしまう

その最初のところに

うちだって お前のとこと同じなんだぞと
言いたがっていた

このメンタリティーが
あるのかもしれない。

そういう意味では
負の遺産の話になってしまいますが

遣隋使というのは その意味で やはり
そのあとの日本の外交政策に

大きな影響を与えたと考えています。

その国際社会でのスタンダードを
内面化というか国内化していくという

そういうプロセスが遣隋使を通じて
かいま見れるなと思うんですよね。

その点で言うと 私は ある種の

近代のときの…

…と思うんですよね。

いかに見劣りしないような制度

それから インフラも含めて
国内整備をしていったのかという

時代の最初の先駆けだったんだろうなと
思うんですよね。

磯田さん 番組が始まって6年目にして

初めて この聖徳太子を…。
そうなんですよ。

作りにくかったから
作ってなかったんですよ。

要するに実像が難しかったからですよ。

…ということですよね。
ええ そうなんですよ。

何でだろうって こんなに
像が揺れるんだろうって思ってると

やっぱり 聖徳太子っちゅうのは…

廃仏をやりたいとき
仏教を排斥したいときは

攻撃される対象となり
逆に 例えば 日清戦争に勝ち

中国より経済規模が 我々が大きくなった
30年間とかだと

「対等外交だ」と。
「あれをやった人だ」と言い…。

天皇の権力 強いということを
言いたかった明治以後だと

天皇の権力を確立したとかいうふうに

要するに 見る側が 自分がなりたいものを
自己投影してるという。

自己投影性が高い人物であったかなと
思います。

聖徳太子を見れば 日本が象徴される
っていうことなのかもしれない。

だから お札にも長く
なってきたのかなっていう気がしますね。

今日は皆さん
どうもありがとうございました。


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