歴史秘話ヒストリア「そして“能”は生まれた 世阿弥 時代を超える戦略」誕生から600年。伝統芸能の最高峰「能」を…



出典:『歴史秘話ヒストリア「そして“能”は生まれた 世阿弥 時代を超える戦略」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「そして“能”は生まれた 世阿弥 時代を超える戦略」[解][字]


誕生から600年。伝統芸能の最高峰「能」を作り上げた、室町の巨人・世阿弥。時代を超える芸術を生んだその生涯を、実際の能楽師の能で再現。日本の宝・誕生秘話です。


詳細情報

番組内容

室町の巨人・世阿弥。伝統芸能の最高峰にして現存最古の演劇「能」を完成した人物だ。「初心忘るべからず」といった名言を残すなど、時代を超え人々の心を動かしてきた世阿弥は、どのようにして600年続く芸術を作り上げたのか。番組では、けんらん豪華な室町文化の中心にいながら、晩年は佐渡で人知れず生きた波乱の人生を、実際の能楽師の「能」でリアルに再現。その幽玄の世界を楽しみながらひもとく、日本の宝・誕生秘話です

出演者

【出演】能楽師…辰巳和磨,辰巳満次郎,【キャスター】渡邊佐和子



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歴史秘話ヒストリア「そして“能”は生まれた 世阿弥 時代を超える戦略
  1. 世阿弥
  2. 猿楽
  3. 義満
  4. 観阿弥
  5. 将軍
  6. 三郎元重
  7. 観世座
  8. 言葉
  9. 養子
  10. 十郎元雅
  11. 芸術
  12. 人物
  13. 天才
  14. 当時
  15. 舞台
  16. 観世大夫
  17. 自分
  18. 主人公
  19. 足利義満
  20. 物語


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こんにちは。

今年 54歳で
3度目の宇宙滞在に挑みます。

その宇宙で
野口さんが 心の支えにするもの。

なんと 600年前に著された
一冊の本です。

書いたのは 世阿弥。

一体 どんな人物か
皆さんは ご存じでしょうか?

♬~

伝統芸能の最高峰…

世阿弥は その能をつくり上げた
室町時代の巨人です。

3代将軍 足利義満に愛され

一気にスターとなった 少年の日々。

しかし やがて
巨大な壁が立ちはだかります。

次々現れるライバルたち。

将軍・義満亡きあとの 激しい迫害。

何!? 仙洞が…。

それでも 芸を磨く世阿弥。

たどりついた 能の境地とは…。

以来600年。

能は 世阿弥の世界を受け継ぎ
人々を魅了しています。

(拍手)

現存する 最も古い舞台芸術と言われる
日本の宝。

時を超え 人の心を動かす芸術
能を生んだ 一人の天才の物語です。

♬~

「歴史秘話ヒストリア」
今夜も どうぞ おつきあい下さい。

今回の主人公は 世阿弥。

歌や舞で演じられる
伝統芸能

「能」を完成させた
人物です。

世阿弥が活躍したのは
600年ほど前の室町時代半ば。

南北朝の動乱も収まり

つかのまの平和が
訪れていた頃です。

時の権力者は
室町幕府3代将軍の…

当時 花開いた

室町の文化を
代表するものの一つが

能でした。

それまで 「猿楽」として

滑稽さを楽しむことの多かった
踊りや歌を

世阿弥は 深いテーマ性を
あわせ持った芸術に

生まれ変わらせました。

今日は
能楽師の辰巳和磨さんが世阿弥を

和磨さんの父
辰巳満次郎さんが

世阿弥の父
観阿弥を演じます。

日本が誇る 究極の芸術「能」は
どのように生まれたのか。

それを知るために 若き日の世阿弥から
見てまいりましょう。

世阿弥は ここ大和国の
猿楽一座に生まれました。

当時 寺や神社の行事で
神様や鬼などの役を務めたという

猿楽の演じ手たち。

14世紀の半ば。

そこに 一人のスターが生まれます。

♬~

抜群の演技力を備え

大柄にもかかわらず
女性を演じると はかなく見え

少年を演じると
12~13歳に見えたと言われます。

「観世座」という一座を率いて

猿楽を大きく改革した人物でも
ありました。

その一つが 「曲舞」という
別の芸能を取り入れたこと。

拍子をとりながら
物語を語る芸です。

曲舞の技によって

猿楽は たくさんの言葉を
表現できるようになりました。

より複雑なストーリーを
語れるようになったのです。

松岡心平さんは
当時の観客は この変化を

新鮮な驚きとともに
受け止めたと考えています。

…という気はしますけれどもね。

その観世座に
重要な転機が訪れます。

京都の南東…

ここでの公演を 将軍・足利義満が
見に来ることになったのです。

観阿弥の評判を 聞きつけてのことでした。

観阿弥は この時
型破りな演出で 義満を喜ばせます。

あの「翁」は 随分と若いのう。

あの大男は
観阿弥にございましょう。

ほう。

猿楽で 最初に演じられる
「翁」は

座の長老が務める習わし。

それを まだ若い観阿弥が
自ら演じました。

自分目当てに来た
義満の期待に応えるためです。

そして もう一つ
義満の心を捉えたもの。

あの稚児は?

観阿弥のせがれにございます。

12歳の世阿弥です。

世阿弥の場合には
その芸も そうですけれども

その美貌ですよね。

少年としての
非常な美しさがあって

で これは だから 二重のインパクトを
義満に与えたんじゃないでしょうかね。

芸もすごいし かわいいというような。

これは もう
自分のものにしたいというふうに

もう 即決したんじゃないかと
思いますけれども。

京の夏の風物詩…

見物する義満の隣には
世阿弥の姿がありました。

祇園会の祭りは
年ごとに華やかになるのう。

そなたの芸と同じじゃ。
ハッハッハッ。

杯をとらそう。

いえ… それがしになど
もったいのうございます。

今宵は祭りぞ。 かまわぬ。

では…。

世阿弥を いつもそばに置き
いとおしんだという義満。

頂戴つかまつります。

実は 世阿弥を大切にした
もう一つの理由がありました。

観世座は 現在の京都市上京区に
屋敷を与えられ 拠点を移しました。

猿楽は 庶民の芸能から

一躍 京の文化の
中心的存在となったのです。

しかし…。

花も そなたも
いずれ 枯れてしまうのが惜しい。

花は枯れますゆえ
人の心を つかむものかと。

(義満)枯れるゆえ のう…。

幸せな時代も
長くは続きませんでした。

世阿弥と義満の出会いから
10年がたった頃。

父上!

心配 要らぬ。

(世阿弥)お気を確かに! 父上!

観阿弥が 巡業先で急死したのです。

大夫!
大夫!

何故 かようなことに…。
≪我らは どうなる…?

22歳の若さで 突然
一座を率いることになった世阿弥。

しかし 美少年の時期は過ぎ

将軍・義満との関係は
変化していました。

♬~

この時 義満が寵愛していたのは
近江猿楽の犬王。

「天女舞」と呼ばれる
優美な舞を得意とし

評判をとっていました。

義満は 出家後の自分の名前
「道義」から一字を取り

「道阿弥」の名を与えました。

再び 義満に認められるため
世阿弥は 己の芸を見つめ直します。

大柄な父・観阿弥とは
異なり

小柄だったという
世阿弥。

また こうも語っています。

どういう意味なのでしょうか?

能の研究家 天野文雄さんです。

なるべく それを
抑えよう抑えようと

していたんではないかなと
思うんですけど。

(謡)

世阿弥が目指したのは

しとやかで 柔和な美の世界…

ライバルの優美さと
父・観阿弥の幅広い演技力。

それらを あわせ持った 新たな美を
つくり出そうと もがきました。

既に 将軍職を 息子の義持に譲っていた
足利義満は

北山殿を造営。

お披露目のため
盛大な猿楽の催しを開きます。

政治 そして文化の中心が
この地に移ったことをアピールする

重要な舞台。

その時 義満が演じさせたのは
世阿弥でした。

なんという美しさよ…。

♬~

世阿弥のつくり出した芸が

時代を代表する芸術として
天下に認められたのです。

以来600年。

世阿弥の芸を 今に受け継ぐ…

観世宗家に代々伝わる
家宝があります。

北山殿での舞台の直後に書かれました。

読むのは
後継ぎのみ。

能を理論的につづった
日本初の演劇論には

演じ手の魅力「花」を

いかに引き出すかが
記されています。

その「戦略」が 今

能に直接関わらない人にも

大きな影響を与えています。

いくらと思いますか?

なんと めちゃくちゃ安くして
37, 800円!

世阿弥の言葉に共感するという
通販会社 元社長の高田 明さん。

小さなカメラ販売店を
全国規模の通販会社に育て上げました。

世阿弥に出会った きっかけは

「社長が いつも話していることが
書かれていた」という

社員の言葉でした。

例えば この記述。

「常に 新しく 珍しいものを
つくることこそ

観客を引きつける」
という意味です。

世阿弥が語った言葉の中でも
特に有名な…

これにも
大きな影響を受けました。

600年余り前に書かれた
世阿弥の「風姿花伝」。

能を演じる者の一生とは
どうあるべきかも

年齢を追って記されています。

「立派な役者となっていれば
それでも『花』は残る」。

世阿弥の言葉は

当時の人たちだけでなく 現代の私たちも
ハッとさせられますよね。

能や芸術の本質を
はやばやと つかんだかに見える

天才・世阿弥ですが

更なる高みを目指し
試行錯誤は続きます。

世阿弥46歳の年 転機が訪れます。

足利義満が
世を去ったのです。

更に このころ
強力なライバルが現れました。

♬~

全く新しい芸の様。

衝撃を受けた世阿弥は
こう 記しています。

「舞台の上を少し進み…」。

僅かな動きで 深い感動を呼ぶ。

実は この芸術性には
ルーツがありました。

禅宗 禅です。

座禅で悟りを開こうという
仏教の宗派。

そして 当時 最先端の思想。

装飾を捨て
本質に迫ろうとする姿勢が

室町時代 日本文化に
大きな影響を与えました。

世阿弥も 禅を取り入れます。

そして 後に 能の要ともなる
境地に達します。

「心を 10割 働かせよ。

体の動きは 7割にとどめるべし」。

体を使う芸術で
体の動きを抑制するという 逆転の発想。

観客に対する
ある効果をねらっていました。

もう一つ 世阿弥が
この時期に始めた挑戦があります。

能の脚本を書くことです。

実は 世阿弥の書いた物語の
ほとんどが

共通の 少し変わった構造をしています。

それまでの 多くの演劇が

時間を追って
進んでいくのに対し

「夢幻能」は
主人公の 心の動きで進行します。

例えば…。

旅の僧が ある土地を訪れ
人と出会います。

その人は
土地にまつわる昔話をしたあと

自分は この話の主人公の
亡霊であることを ほのめかし

消えます。

物語の後半 僧は眠りにつきます。

すると夢に 先ほどの人物が
今度は 生前の姿で現れます。

そして ここから
長い時間をかけた歌や舞で

恨みや悔しさなど
主人公の心の叫びが 表現されるのです。

主人公になったのは

源 義経など
悲劇のうちに亡くなった武将や

夫を待ちわびる妻
捨てられた老婆など。

多くが 敗者や弱者たちでした。

苦しみ 命を落とした者の心を描く
「夢幻能」。

室町時代を生きる人々にとって
特別な意味がありました。

日本が2つに割れ 相争った南北朝の世。

人々には その記憶がまだ
生々しく残っていました。

死者を いかに弔うか。

そして 自身を いかに癒やすか。

それは 将軍から庶民まで

切実な課題でした。

これをね まさにね…

死 そして癒やし。

人間の いつの世も変わらない
切実な問いと向き合った 世阿弥。

こうして 未来へ続く
普遍的な力を備えた

「能」が生まれたのです。

父・観阿弥を亡くし

若くして 観世座を
引っ張ってきた 世阿弥。

一方で 観阿弥より長く生きた
世阿弥には

自分の芸を継ぐ者が育っていました。

初め 息子のいなかった世阿弥は

弟の子を養子とし

「三郎」と
名付けました。

「三郎」は
世阿弥も名乗った名前で

観世座の後継ぎを
表すと見られます。

その直後 世阿弥自身にも
息子が生まれました。

十郎です。

実子の 十郎元雅

養子の 三郎元重は それぞれ芸に励み

二人とも 優れた能役者に
育っていきます。

しかし このことが 世阿弥にとって
思わぬ苦悩をもたらし

彼自身の運命をも
左右することになります。

世阿弥は 60歳で出家。

観世座を率いる 観世大夫の座を
退きます。

後を継ぐのは 三郎の名を与えられた
養子・元重のはず。

ところが 奇妙な記録があります。

将軍家とも縁の深かった
僧・満済の日記です。

世阿弥が引退した 5年後の…

「観世大夫」が
猿楽を演じたという記事。

この人物
養子の三郎元重かと
思いきや…。

2日後の
4月23日に

今度は
「観世三郎」が

猿楽を上演したという
記事があります。

僅かな間に

「観世大夫」「観世三郎」と
書き分けられているため

2人は別人と分かります。

つまり
観世座を継いだのは

養子の三郎元重では
なかったのです。

養子の三郎元重の他に
観世大夫となれるのは

世阿弥の実子
十郎元雅。

後を継ぐはずだった
三郎は

別に 一座を立てたと
思われます。

2人は 世阿弥の跡目をめぐって
対立していたのでしょうか。

そして この状況は
意外な展開を迎えます。

そのヒントも
僧・満済の日記にありました。

独立した 三郎元重の猿楽が

ある人物に後援されていた
という一文です。

義円は 足利義満の息子で
時の将軍・義持の弟。

当時 僧侶となっていました。

事態が急変したのは
1428年。

将軍・義持が
亡くなった時のことです。

次の将軍が くじ引きで
決められることになりました。

選ばれたのは 義円。

養子・三郎元重の後援者が
突然 強大な力を持ったのです。

義円は将軍になると
義教と名を改めました。

感情の起伏が激しかったと言われ

その影響は 世阿弥と
実子・十郎元雅にも及びます。

事件は 義教が将軍になった その年に
起こりました。

(十郎元雅)父上!

仙洞での猿楽が 取りやめに…!
何!?

(十郎元雅)御所様の仰せにございます。
父上と私の猿楽は まかりならぬと。

御所様が? 何故に…。

後小松上皇の希望で
行われるはずだった

世阿弥と 実子・元雅の猿楽。

それが 将軍・義教の命で
中止されたのです。

(世阿弥)
御所様が いかに おぼし召されようとも

我らは 我らの信ずる芸の道を
行くしかない。

一座の心を和合すれば
いずこで舞おうとも 花は咲く。

(一同)はっ!

実は 世阿弥が 元雅を後継ぎとしたのは

我が子だったから
というだけではありません。

世阿弥は
こんな言葉を残しています。

新たな演目を作ることが
何より重要だというのです。

一方の 養子・三郎元重は
世間から こう評されました。

世阿弥をしのぐほど

芸が達者だったと
考えられています。

劇作家としての天才と
演じ手としての天才。

時の権力者が選んだのは
演じ手の天才・元重でした。

この後 十郎元雅は
京の舞台から排除されていきます。

奈良県天川村。

山深い場所にある…

ここに
一つの能面が伝えられています。

裏には 十郎元雅の文字。

願いもむなしく この2年後

元雅は 巡業先の伊勢で急死。

まだ 32歳の若さだったと
言われます。

♬~

その翌年の 4月。

三郎元重の 能の興行が行われました。

元重が 正式に観世大夫となった
晴れの舞台。

この時 世阿弥は どうしていたのか。

既に 70を過ぎていた世阿弥は
将軍・義教の命で 佐渡へ流されます。

理由は分かっていません。

佐渡で亡くなったのか
それとも 京へ戻れたのか

それすら 明らかではありません。

世阿弥が 佐渡に渡る時に作った歌が
残されています。

能の舞台で歌われる 「小謡」。

佐渡へ 今まさに
送られようという小舟の上。

世阿弥は 海に浮かぶ漁火に
魅了されたのでしょうか。

そこに見えるのは

悲劇に見舞われながらも
決して 能を忘れなかった

一人の天才 その姿です。

観世座を継いだ三郎元重は
後に 音阿弥と名乗り

晩年まで活躍します。

(兵たちのおたけび)

しかし 元重が亡くなった年
応仁の乱が始まりました。

再び 戦乱の世となり
能は廃れていきます。

そして 能を大成した世阿弥も
忘れ去られていきました。

能が 再び日の目を見たのは
戦国を経た 江戸 太平の世。

能は 徳川家康に愛好され

後に
江戸幕府の「式楽」として

重んじられます。

更に 町人の間でも
能の一部を歌う 「謡」が大流行。

世阿弥が作り上げた物語は
時を超え

日本人の心に
深く しみわたっていきました。

そして 明治の終わり。

ついに 世阿弥の存在が再発見されます。

歴史学者・吉田東伍が
「風姿花伝」などを研究。

世阿弥の思想が

初めて
一般に紹介されたのです。

時代に翻弄されながらも
受け継がれてきた 「能」。

〽青海波とは

そして また 次の世代に
手渡されていきます。

まだ 今 20歳になったばっかりで
今 継承とか そういう 継ぐっていう

まだまだ全然 そう 言えるような立場
言えるような… というのはないんで

いつか そういう日が来るのはあるので

その日まで 毎日毎日
厳しいお稽古を積んで

自分から継承するっていうよりも
周りから認められるようになる。

日々 日々 もう 積み重ねていくことが
大切だと思ってます。

世阿弥に 心惹かれている…

今 挑んでいるのは 世界初の試み。

これまで 国のものだった宇宙開発を
民間の手で行う。

新時代の夢をのせた ミッションです。

中心的な役割を務める
野口さんが支えとするのは

やはり 世阿弥の言葉。

世阿弥は こんな言葉を残しています。

♬~

命を懸けて 追い求めた芸の道は

はるか はるか遠くまで 続いていました。

♬~


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