ファミリーヒストリー「太田光~亡き父が残した書 “爆笑問題とは何ぞや”~」 父方のルーツは、静岡磐田・母方は新潟…



出典:『ファミリーヒストリー「太田光~亡き父が残した書 “爆笑問題とは何ぞや”~」』の番組情報(EPGから引用)


ファミリーヒストリー「太田光~亡き父が残した書 “爆笑問題とは何ぞや”~」[解][字]


父方・太田家のルーツは、静岡磐田。昭和3年に東京板橋へ移り、枕の製造を始める。その経緯が明らかに。さらに、母方は新潟から関東にやって来た家。その意外な理由が。


詳細情報

番組内容

父方・太田家のルーツは静岡磐田。昭和3年、東京板橋へ移り住み、枕の製造を始める。その背景には、祖父の波乱の日々があった。そして父は戦後、飲食店などの内装業を始める。携わったのが、あの有名焼肉チェーン店。それまでの常識を覆すデザインだった。一方、母方は新潟上越。交流のある親戚はいなかったが、今回、古文書をもとに意外なルーツが明らかになる。さらにデビュー当時の「爆笑問題」秘話。両親の愛が詰まった物語。

出演者

【ゲスト】太田光,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子



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ファミリーヒストリー「太田光~亡き父が残した書 “爆笑問題とは何ぞや”
  1. 三郎
  2. 勘三郎
  3. 太田家
  4. 昭和
  5. 瑠智子
  6. 五郎
  7. 自分
  8. 仕事
  9. 現在
  10. 光代
  11. 明治
  12. 当時
  13. ルーツ
  14. 家族
  15. 全然
  16. 太田
  17. 名前
  18. 会社
  19. 今日
  20. 失敗


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今夜のゲストは ちょっと過激です!

時事問題を ウィットに富んだ笑いに変え
時代の先頭を走り続けてきました。

まあ 大変といえば
テコンドーが大変ですよ。

ほんとにね すごいのが出てきましたね
またね。

金原会長。
最初 見た時

いっこく堂の人形かと思った。
思わねえよ そんなの。

なんで 人形だけ出てんだろうと。
いやね 人形じゃない。

新ネタなのかなと。
人だよ! ネタじゃない。

今回 初めて
自らのルーツと向き合います。

光さんの亡き父・太田三郎。

都内で
内装業を営み

妻の瑠智子と共に
一人息子の光さんを育てました。

三郎が 太田家のルーツについて
語ったこととは?

東京・板橋で 今も枕製造を続ける
父・三郎の実家 太田家。

光さんの幼少期
毎年 正月と盆には親戚中が集まる

にぎやかな一家だったといいます。

今回のゲストは 太田 光さんです。
どうぞ。           どうぞ。

ああ どうも失礼します。
よろしくお願いします。

あ NHKバージョンで。

あんまり暴れないように。
いつもと違うじゃないか。

いやいやもう
キャラクター 変えましたね。

今日はね これ NHKだから
おとなしいだけじゃないんです。

今日は 嫁が来てるんです。
なんとまあ。

これが一番 効くんです。
これが一番 おとなしくなるから。

奥さん すいませんね
ほんま 今日はね。

まあ言うたらね
旦那さんの家のルーツですから。

奥さんも気になりますから。

ルーツは どうですか?
何か知ってたりとか。

猿だった? それは みんなそうです。
それは みんなそう。

かなり遡らないと。
そこまでは うちらも遡らないです。

どんな気持ちでしょう?

いや~ もう ちょっと
楽しみでもありますね。

不安… 不安と
半々という感じですかね。

♬~

爆笑問題 太田 光の
「ファミリーヒストリー」。

まずは 太田家の歴史に迫るため
父・三郎の実家を訪ねます。

枕製造「太田商店」の店主
光のいとこにあたる 太田 茂さんです。

金の枕 いいじゃん。

(池田)そうなんですか。

へ~。

枕製造は
茂さんで3代目。

先代にあたる
茂さんの父が
長男の五郎。

その弟が
光の父・三郎です。

そば殻から羽毛まで
根強いファンに支えられてきました。

そもそも太田家は なぜ枕の製造に
携わることになったのか?

昭和22年に亡くなった初代店主…

その背景は
謎に包まれ

茂さんでも分からないと
いいます。

近所に暮らす
茂さんの一番上の姉…

光とは
30歳年が離れた いとこ。

一枝さんのもとには 太田家のルーツに
関わる 手がかりが残されていました。

平成11年 光の父・三郎が
71歳の時にまとめた自伝です。

一枝さんをはじめ
近親者だけに配っていました。

その書き出しは
三郎の出生から始まります。

勘三郎は 瀬戸物屋を妻に任せ

自分は 別の仕事をしていたといいます。

取材班は磐田へ。

勘三郎の人生を調べるため
まずは 本籍地を訪ねます。

「静岡県 山名郡 和口村 35番地」。

現在の磐田市の南東部
「和口」です。

江戸時代から農業が主体の
この地域では 太田姓が多く

その理由は すぐ近くを流れる
太田川にあると考えられています。

この地域の太田家の本家
太田孝雄さん 喜子さん夫婦です。

光の家との つながりは
分からないといいます。

明治の地図を頼りに

旧住所 35番地を
案内してもらいました。

勘三郎一家が所有する家と田んぼは

周辺に比べて
僅かな面積でした。

明治8年 勘三郎は
ここで生まれます。

父は 新吉 母は との。

そして 妹・たきの
4人家族。

ところが!

明治17年 大黒柱の新吉が急死。

この時 勘三郎は9歳
妹・たきは 僅か3歳でした。

残された家族に関する記録が

磐田市歴史文書館で見つかりました。

太田家の新たな戸主となったのは

僅か11歳の勘三郎。

寄留簿によると 母・とのは
明治19年に 和口村の土地を手放します。

女手一つで農業をするのは 限界でした。

転出した先は 同じ山名郡の「福田村」。

明治から昭和にかけて
別珍・コール天の一大産地だった 福田。

現在は
数軒が営業するのみとなっています。

とのは 家計を支えるため
機織り工場で働きました。

そして11歳の勘三郎は

磐田で米を中心に扱う鳥居商店へ
丁稚奉公に出ます。

以来10年にわたって 懸命に働くと
その仕事ぶりが認められます。

勘三郎は数字に強く
番頭格にまで出世しました。

明治28年 店主・鳥居重次郎の
長女・はなと結婚。

4人の娘に恵まれます。

磐田の中心部から程近くに
家を構えました。

ところが明治41年 妻・はなが結核で急死。

勘三郎は 鳥居商店をやめます。

残された娘たちのためにと

みよと再婚しました。

そして 勘三郎が新たに始めたのは
米の先物取引。

長年 米を扱ってきた知識を生かし
ひともうけしようとしたのです。

以来 日本橋 蛎殻町にある
「東京米穀商品取引所」に

頻繁に通うようになります。

勘三郎と前妻・はなの孫
村田志づさん 96歳です。

米相場のかたわら
更に勘三郎は

新たな商売を始めます。

当時の商品を 志づさんが
今も持っていました。

(取材者)へ~ これ。
はい。

勘三郎が 瀬戸物を仕入れていたのも
日本橋 蛎殻町。

当時 隅田川と
箱崎川に挟まれた
この地域は

瀬戸物問屋も
集中していました。

勘三郎は 磐田の自宅で
瀬戸物屋 「わぐちや」を開業。

しかし店は 妻と娘たちに任せっきり。

自分は 本業の米相場と株取引に
のめり込みます。

光の父・三郎は この時の太田家の様子を
伝え聞いていました。

しかし 時代が大きくうねります。

昭和2年 金融恐慌が起こります。

東京で起こった取り付け騒ぎは
全国へ拡大し

多くの銀行が 休業に
追い込まれました。

しかも この年
豊作だったこともあり

米相場も
大暴落したのです。

瀬戸物屋の売り上げだけでは
立ち行かなくなった勘三郎。

太田家は一転
借金取りに追われるようになりました。

太田家は 夜逃げ同然で
磐田を離れることを覚悟します。

昭和3年
その厳しい状況の中で生まれたのが

三男の三郎 後の光の父です。

ちなみに 長男が「五郎」で
三男が「三郎」という

ちょっと変わった
名付け方の理由。

勘三郎は 生まれたばかりの三郎を連れて
東京・板橋へ。

前妻との間にできた娘が
枕販売を営む家に 嫁いでいたため

その家に 身を寄せることになりました。

う~ん いかがでしたか?

いや~ 全然 知らないことばっかり。
ねえ。

ねえ。
いや~ なかなか…。

相場で失敗してたんだね。
相場で失敗してて 米…。

でも お父さんの三郎さんも
マメというか。

やっぱ 一度 気になって
こう 全部 自分で調べたんですね。

俺 ちょっと 思ったんだけど

そのおやじさんの勘三郎さんの
更に親の

え~ 何とかっていう人の
奥さんが

「との」っていう
名前だったでしょ?

あれ 年代的には 江戸時代の
生まれだと思うんだけど。

「との」って 江戸時代に
「との」って付けるって
すごいよね。

確かに 殿様の「殿」と
響きは一緒ですもんね。

よく付けたなと思って。
本当。 呼ぶ時 「との」やから。

江戸時代だよ? だって。
太田家のネーミングセンスが。

ほんと ほんと。
どうかしてるよね。

いや でも その~ ねえ?
太田家っていうのが枕製造。

あれは でも
ほんま もしかしたら

我々も 若い時に
使ったことあるかも分かんないですよ。

お世話になってるかもしれないですね。
いちいち 剥がさないから 枕カバーを。

モーテルっつってたね。

昭和3年 金融恐慌によって
ふるさと静岡を追われた

光の祖父・太田勘三郎。

東京で枕販売をしていた
三女・わさの嫁ぎ先に

太田家は 家族9人で
世話になることになりました。

家族が暮らした板橋は

古くから
鉄工所や町工場が立ち並ぶ地域。

ここで 勘三郎は
家族で枕作りを始めます。

この時 勘三郎は53歳でした。

自分の失敗から招いた 東京での暮らし。

心を入れ替えて働きます。

オート三輪の上でポーズをとる
三郎と一枝さんです。

当時 市販の枕に加えて
陸軍にも納めていたことから

売り上げが 順調に伸びていきました。

再び生活が上向いてきた 太田家。

昭和16年 三郎は

父・勘三郎の強い勧めから

板橋の進学校 東京府立第九中学校へ
入学しました。

その年の12月
太平洋戦争が勃発。

三郎の2人の兄は

陸軍の通信隊に
配属になりました。

このころ三郎は 学校の軍事教練へ参加。

そこで ある事件を起こします。

どこだ~?

銃の部品を落としてしまったのです。

三郎が 学校から貸与されていた
「三八式歩兵銃」。

落としたのは
「弾倉底板」と呼ばれる

重要部品でした。

この時の心境を
三郎は 自伝につづっています。

「『銃は 天皇陛下から おあずかりした

大切なもの』という考え方からすれば…」。

家族に話せず 学校へも行けず
ひたすら 家の物置に隠れていた三郎。

見つけたのは 父・勘三郎でした。

勘三郎は 紋付き袴に着替え

学校へ急行します。

申し訳ありませんでした!

申し訳ありません!

弁解は一切なし。

ただ 息子の失態を
土下座で わび続けました。

子どもたちが
まっとうな人生を歩めるようにと

全力で守ってきた 勘三郎。

三郎には 強烈に覚えている
父の言葉があります。

昭和20年 三郎は 東京農林専門学校

現在の 国立 東京農工大学へ進学。

そのまま 終戦を迎えます。

軍隊へ行っていた 五郎と四郎も

空襲を免れた太田家に帰ってきました。

新たに家長となった 長男・五郎は

GHQによる
繊維の統制が緩和されたことを機に

昭和23年
「枕専門店 太田商店」を再開します。

二十歳になった三郎は

「これ以上
兄の世話になるわけにはいかない」と

自立する決意をしました。

しかし やりたいことが定まらず
画家を目指し

落語家を目指し

映画監督を志しました。

父・勘三郎の教えを
胸に

三郎は
自分にあった仕事を

探し続けました。

寅さんみたいな。
(池田)フーテンの。

それから5年。

絵が得意だった三郎は

内装デザインの仕事に就きます。

銀座や赤坂の 喫茶店の内装を
手がけ始めました。

全然 違う…。
(池田)場所が すごい。

そんなやさき 三郎が
仕事先で偶然出会った 一人の女性。

名前は…

その人こそ
後の 光の母となる女性でした。

いや~ いかがでしたか?
三郎さん 面白いですね~。

いや 面白いですね~ やっぱりね。
めちゃくちゃですよね でもね。

だって 体を動かせっていって
それを胸にっつってたけど

おやじ 全然
体 動かさない人だったからね。

ず~っと寝てんだから うちで。
そうですか。

でも 画家とかも
仕事的には動かさない。

画家も落語家も座ってるから。
確かに。

ちょっと 意味がちゃうよね だから。
違うよね。

確かに いろんなとこ行っては
帰ってきてる 動いてた。

この辺 動いてるだけだもんね。
確かに。

全部やって 失敗して。
そうそう やってみて みたいな。

えらい。 だから そういう意味では
すごい動いてるよね。 そうだね。

頭で考えて 動かないんじゃなくて

動いてみて チャレンジして
で 帰ってきて

五郎さんが受け入れるというね。

今から60年前 TBSの前身
KRテレビで 人気を博した

素人参加番組「源平芸能合戦」。

勤めていた会社で バンドを組んで出場。

唯一の女性ながら

アコーディオンの腕前を
堂々披露したのが 後の 光の母。

名前は…

「ファミリーヒストリー」。
続いては 母方・熊木家に迫ります。

瑠智子の父 光の祖父は
熊木武三。

曽祖父は 五郎。

五郎の戸籍によると
本籍地は…

これ 知らなかった?
知らなかった。

現在の上越市 大潟区
雁子浜です。

日本海に面した 人口600の集落。

現在 雁子浜には
つきあいのある親戚はいません。

今回の取材で 五郎の本籍地に

今も 熊木家が住んでいることが
分かりました。

現在の主 熊木松男さんです。

太田 光の親戚筋と 初めて聞いて…。

松男さんによると 熊木家は代々

次男の筋が
この土地を守ってきたといいます。

長男の五郎は 31歳で家を出ました。

幕末から 多くの村人が
杜氏として出稼ぎをしていた 雁子浜。

背景には その厳しい環境がありました。

集落自体が 砂丘の上にあるため
農業をするには難しい土地。

更に 日本海から吹く強風の影響で
漁業で生計を立てるのも困難でした。

上越市にある 公文書センターです。

五郎の寄留届が 残されていました。

杜氏として 冬に埼玉で出稼ぎをしていた
五郎は

明治29年
妻と2人の子どもを連れて転出します。

入間の酒屋で
働くことにしたのです。

公文書センターには ふるさとを離れ
後に 関東で酒屋として独立した

村人たちの記録が残されていました。

♬~

それから 15年余り。

五郎は 酒屋として独立し

所沢で 自分の店を
持つまでになります。

そんな五郎の三男が
埼玉で生まれた 武三。

後の 光の祖父です。

五郎は
「これからの時代は教育」と

武三に
私学の錦城商業学校で学ばせ

バイオリンまで習わせる徹底ぶり。

娘の真理子さんと浩美さんです。

武三は 文学も
好きだったといいます。

昭和2年 三男の武三は

北区王子に 自分の酒屋を構えます。

仕事のかたわら 文学に音楽に

自分の趣味を楽しみました。

そして 昭和8年
四女が誕生。

名前は 瑠智子。
後の 光の母です。

だから ねえ
ミチル ルチコ チ…

あっ ミチル チルコ
ルチコなんですよ。

だから 父のね 好みで
付けたんでしょうね。

チルチルミチルで
付けたって 私は…

聞いてましたけどね。

そんな姉妹の中でも
瑠智子は 特に活発な女の子でした。

覚えてんのは…

瑠智子は おしゃれをして

武三と共に
銀座へ出かけるのが

大好きでした。

そして 子どもたちが

夢中になったことがあります。

(真理子)サーカスのジンタとか
そういうのにね。

タータタタタっていうのあるでしょ。
あれをね 弾いたんです。

アコーディオンが得意だった瑠智子。

音楽以外にも 夢を抱くようになります。

それが 「女優」でした。

高校時代は 演劇部

卒業後は
劇団の研究生として

日々 稽古に
励むようになったのです。

二十歳になった瑠智子は
劇団の学費を稼ぐため

喫茶店でアルバイトを始めます。

その店では 一人の男性が働いていました。

なんか どういうことしてるか…。

その人こそ 太田三郎 25歳。

本職は 内装デザイナー。

喫茶店の工事が終わり
その後の仕事が なかったことから

そのまま店で
アルバイトをしていたのです。

演劇の話で盛り上がり
2人は すぐに ひかれあいます。

三郎は 瑠智子のためにも
生活を安定させようと

友人たちと
新たに内装デザイン事務所を設立します。

瑠智子も
劇団をやめ 銀座の大手缶詰会社に就職。

家計を助けました。

今も会社には
瑠智子が書いた社内報が残っていました。

こちらはですね…

他人を装って 瑠智子自身が書いた
自己紹介文です。

え~っ どういうこと!?

結婚から 5年後

三郎は 学生時代の友人と
資金を出し合い

埼玉県上福岡市に
新居を構えます。

1階部分は 友人宅。

2階部分が
三郎と瑠智子の新居になりました。

昭和40年5月
待望の男の子が誕生。

名前は
「光」。

三郎が最も好きな漢字をあてました。

いとこの一枝さんが
こんなものを見せてくれました。

それを… フフフフフフッ
したらしいです。

光の手形足形がついたマグカップ。

三郎と瑠智子は うれしさのあまり
100セット作りました。

バカだね~。 バカだね~ 三郎さんは。
100… 100セット。

あれだけじゃないんですね。
ハハハハハッ! みんなに配ったんだね。

100セット!
迷惑だったろうな~。

人んちの赤ちゃんのあれは要らないな。
気持ち悪いもんね。

ハハハハッ!
人んちの子の足形ってさあ。

プラス なんか もうちょっと なんか
かいてくれないと デザイン。
そうですね。

もともとは新潟から
杜氏として埼玉の方に出てきたと。

そういうことなんだね。
それは 全然 知らなかった。

聞いてなかった。
うん。

新潟にルーツが出たから 親戚筋が
逆に言うたら 爆笑問題の…。

びっくりしてたね。
太田君が 「えっ 身内?」っていう。

アハハハハッ! どう解釈していいんだか
分かんない顔してたね。

3人が戸惑ってたから。
戸惑ってる。 完全に戸惑った顔してたね。

でも とにかくね あの 悪いことは
言われへんし よかったねえって言って

まとめてたけどね。
アハハハハハッ!

人がいいんだな みんな。
確かに 確かに。

昭和43年
40歳になった
三郎は

新たな内装
デザイン事務所…

自分と まな息子
「光」の名前

それぞれ
一文字ずつ

取りました。

(池田)お父さん ふっくらしましたね。

おやじは
太ってた。

かつての三郎の部下
内装デザイナーの…

会社を立ち上げるにあたり
三郎には 一つの戦略がありました。

「日本麺類業団体連合会」の協力業者に
食い込んだのです。

(可児)その当時 その~ 要するに…

三郎が手がけるデザインは

当時のそば屋では珍しかった
「モダンな和風」がテーマ。

間接照明で 温かみのある空間を演出。

座席も 1人用と複数人用に分け

客が気兼ねなく
食事を楽しめるようにしました。

その中の一軒 現在も千代田区で
営業を続ける そば屋です。

店側の細かいニーズに
必死に応えようとする三郎の姿勢が

業界で評判を呼びます。

更に 内装のみならず
こんなサービスも始めました。

それは 店の看板を自ら書くことでした。

三郎自身が書いた下書きの数々です。

書道が素人だった三郎は 仕事終わりに
教室へ通い 夢中で勉強しました。

(池田)すごい いろんな字体が…。

高名な書道家に依頼すれば
費用がかさむ手書き看板を

自ら手がけるためでした。

昭和50年のある日

突然 一人の男が
三郎のもとを訪ねてきました。

三郎が 以前 手がけた店から
紹介されたという 33歳の料理人。

その人物こそ

後に 高級焼肉チェーン 「叙々苑」を
立ち上げる…

新井さんの決断に

三郎は奮起します。

それまでの焼肉屋といえば
店内に煙が充満しているというイメージ。

三郎は そこを一新したのです。

三郎のねらいは 大当たり。

女性客も楽しめる斬新なデザインと
新井さんの味。

店舗は やがて全国へ広がりました。

そして店の看板も 三郎が書きました。

ハハハッ! 泣いちゃった
三郎さん 泣いちゃったか。

寅さんや もう。

三郎は
多忙を極めます。

会社を
青山へ移転させ

帰宅は 毎晩
深夜になりました。

それでも 三郎が

瑠智子と光を
連れて

欠かさず
出席していたのが

正月や盆に実家で開かれる
「太田家の集まり」でした。

更に この時期に 母・瑠智子が
してくれたことが ありました。

神経質な光が
毎晩なかなか寝つけないため…。

昭和59年 光は…

両親が好きだったチャップリンの映画を
幼い頃から見ていた光は

喜劇の道に進みたいと
思うようになったのです。

この時 同じ学科に入学した同級生が…

後の相方です。

いや~…。 すごい 叙々苑!
そうなんです。

あの有名な焼肉屋さんを
手がけてた?           手がけて…。

で おやじの事務所 青山だから

要は ほんとに
そういうクラブのおねえちゃんとか

そういうのを 多分 おやじは
ターゲットにするのを

アイデアとしては あったんだろうね。
「六本木だから。 社長 六本木だから」って。

ひたすら。
ひたすら 「六本木だから」。

多分おやじも よく分かってないんですよ
あれ。 「六本木だから」。    ハハハハ…!

ざっくりした口説き文句ですよね。
いや~ どんどん コメディアンみたいな顔に

なっていってるから お父さんが。
アハハハハハハッ! そうだね~。

だから バラエティーで
暴れる時は お父さん。
あ なるほど。

サービス精神旺盛な方の
お父さんですね。

書き物したり 映像撮ってる時は お母さん
みたいな …が あるかも分かんないね。

両親あっての。
両親あっての 太田 光。

たまに泣きまねとかしたりして。
あれも いいですね。

お父さん似合うな あの感じ。
(笑い声)

高いって言われて 泣くわけないじゃん
社長が。    (笑い声)

絶対うそだ 絶対うそだ。
そこは そこは じゃあ…。

あ! 相方。
もう一人の…

昭和59年 日大芸術学部演劇学科の
同級生となり すぐに意気投合した2人。

薬師丸ひろ子の…。
アハハハ…!

田中さんは 太田家へ
よく遊びに行ったと言います。

で まあ とにかく…

(取材者)ああ そうなんですか。 へぇ~…。

ハハハハハッ!

言わないね。

…みたいな そういう感じなんですよ。

ところが 楽しかったはずの大学生活に
光が疑問を感じたのは

大学2年の時のこと。

「このまま大学にいても
喜劇や お笑いの世界へ行けるのか?」。

そんな焦りを覚えるようになりました。

光は 父・三郎の会社へ電話をかけます。

その時の
電話のやり取りを

隣の机で仕事をしていた
部下の可児さんが

偶然 聞いていました。

…っていうようなことを言って。

結局 三郎は許しませんでした。

それでも光は 昭和62年 大学を中退。

両親が暮らす 埼玉上福岡の自宅には
寄りつかなくなりました。

光は 先に大学を中退していた
田中さんに声をかけ

昭和63年
アマチュアのコント大会に出場します。

光が練ったコントで
会場は 爆笑に包まれました。

その反響に驚いたのは
誰よりも本人たちでした。

この年 大手芸能事務所と契約し

「爆笑問題」として正式デビュー。

いきなり
テレビのレギュラー番組も決まり

お茶の間に登場します。

太田家の親戚たちは 驚きます。

光の それまでの印象といえば
常に人見知り。

「しゃべるらしいよ」 いいね。

更に 翌年 光には運命の出会いが…。

妻の光代さんです。

当時 同じ事務所に所属するタレントでした。

正月 光代さんのアパートで開かれた
若手芸人たちの宴会。

お開きになっても
最後まで帰ろうとしない光。

しかたなく 光代さんは
光を連れ立って銭湯へ行くことに。

三郎さんの…。
ハハハハ!

やり口が…。

その日以来 光は光代さんのアパートから
帰ろうとしませんでした。

それぞれの親には ないしょでした。

光代さんは 妻として
太田家へ挨拶ができないことに

後ろめたさを感じていました。

そこで 光が実家へ電話をかけます。

更に 光たちに
大きな落とし穴が待ち受けていました。

デビューから波に乗る 爆笑問題は

光代さんが止めるのも聞かず
所属事務所を 1年半で独立。

結果 仕事が激減したのです。

タレントを続ける光代さんの
僅かな収入だけが 頼りとなった光。

夫婦でテレビを見ていた時
更なる追い打ちが。

光は どんな仕事でもやる覚悟でした。

平成5年 挑んだのは 「NHK新人演芸大賞」。

「今更 新人でエントリーするのか?」という
周囲の声には耳を貸さず

光は 新作の社会風刺ネタを
次々 書き上げました。

そして…。

♬~

(拍手)
平成5年。

こないだは あの 何だ ロシアの
エリツィン大統領が来日しましたけどもね。

エリツィン大統領っていえば
思い出すのは

日本海に 核廃棄物
垂れ流してたっつう…。

これは びっくりしますよね。
びっくり…

人んちの海ですよ?
日本海ですからね。    ねえ。

とんでもない重要なこと秘密にして…。
重要な秘密あるか分かんないですよ。

ボリショイサーカスより
もっと面白いサーカスがある…。

どこが重要なの!? お前。

全然 重要じゃねえだろ!
そんなの お前。

結果は 見事 大賞に輝きました。

実は この日 父・三郎は

静岡磐田市にある菩提寺「全久院」で
法事に参加していました。

法事の真っ最中。
突如 三郎が切り出したといいます。

ええ 当時。

法事は中断。

親戚たちは 控え室のテレビで
光の優勝に興奮しました。

この翌月には
妻の光代さんが マネージャーとなり

新たな事務所を設立。

ゼロからの再出発を誓いました。

いや~ お父さん 知ってたのかな?
その法事の時に

NHKの演芸コンクールに出たっていうのは。
うん 何か ちらっと聞いたけどね~。

まさか住職まで あんな出てきて。
(笑い声)

まあ でも 迷惑かけっぱなしだったから。

金もね もう全部… お小遣いで
出してもらったり 何だかんだで。

でも それで 初めて どなられて。
そうそう。

ちょっと しょぼ~んとしちゃって…。
(笑い声)

おやじは でも 怒る人じゃなかった。
怒ったとこ見たことない。

あ~ みんなを楽しませるタイプの人やから。

まあ でも
自分の子どものことに関してやと

やっぱ 結婚事後報告っていうのが もう
何やってんだっていうことでしょうね~。

僕 そんなの別に
全然 気にしないと思ってたら

意外と そういう家族のこととか…。
ちゃんとね。

ちゃんと やっぱしろという
そういう人だったんですね。
ですね~。

シャンプーセットの話 面白かったですね。
全部フルセットで買って出てくるって。

だから もう どんどん どんどん こう
詰めていくっていうか…。
そうですね。

逃げ道ないように。
女の人が使う手やもん だって。

自分のシャンプー置いていったりとか。
そうか そうか 部屋にいろいろね。

男でやんのは なかなかだから
優しかったんやね 奥さんが

今は 怖いかもしれんけどさ。
(笑い声)

今度 後日 2人でとかって思うけど

居座るってのは やっぱ…
やっぱ 三郎さんの血やね。  (笑い声)

手近に 最短でいくっていう。

でも どうでしょう? 今日
ご自身の「ファミリーヒストリー」見て。

いやいや でも 何か
知らないこと いっぱいあって。

だから ほんとに 何だろう
米相場で失敗したとかね 先祖がね

ああいうのとか 全然知らなかったから

興味深いっていうか…
う~ん 面白かったですね。

おやじと おふくろには
ちょっと ほんとは

生きてりゃ見せてやりたいなと思ったね。
あっ 今の…。

おやじと おふくろも
多分 知らないだろうから。

おやじも そこまでの
その勘三郎さんの言葉とかね。

そういう どういう経緯で
そうなったとか。

知りたかったんじゃないかなと思って。

光の母・太田瑠智子。

晩年まで 情熱を
傾けていたものが
あります。

それは 視覚障害者への朗読です。

障害者に対面で読み

会場へ来られない人には
テープに吹き込んで渡すという

埼玉上福岡での ボランティア活動。

瑠智子は その中で
朗読の講師役を務めていました。

瑠智子自身が吹き込んだ 朗読のテープが
今も残っていることが分かりました。

「宮尾登美子著 『藏』
朗読者 太田瑠智子。

しゅうとめの むらが しみじみと

『のう 賀穂 物は考えようらて

私みてえに成人するまで手塩にかけて
育てたあげく

どれも二十歳前後で 次々と

3人も労咳でとられた時の悲しみを
思うてみなせや

涙なんか 一滴も出はしねかった』」。

葛貫さんと 落合さんは

かつて 瑠智子から
何度も本を読んでもらっています。

「物語の楽しさ」を語り続けた
母・瑠智子。

平成28年 81歳で
この世を去りました。

そして 父・三郎は 平成24年 83歳で死去。

内装業を引退後も
足しげく通っていた書道教室です。

教室が保存する映像に
練習に励む三郎の姿が残っています。

晩年 三郎は
書のコンテストに出展していました。

その作品が…。

三郎と共に書道を学んだ 現在は講師の…

爆笑問題 太田 光の
「ファミリーヒストリー」。

両親の思いを胸に

光は 今日も舞台に立ちます。

(拍手)

田中君 どっち先に…。
(笑い)

最後の「書」っていうのは?

ちょっと かっこよすぎませんか?
終わり方が。

そりゃもう
最後ぐらい こうしとかないと もう。

あ~あ この親の子だなっていうのは…。
うん はっきりした。


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