アナザーストーリーズ「東海村臨界事故 終わらない闘い」1999年9月、茨城県東海村の核燃料加工施設で大量の…



出典:『アナザーストーリーズ「東海村臨界事故 終わらない闘い」』の番組情報(EPGから引用)


アナザーストーリーズ「東海村臨界事故 終わらない闘い」[字]


1999年9月、茨城県東海村の核燃料加工施設で大量の放射線が放出、国内で初めて原子力事故による死者を出し、住民避難を迫られた。人々は悲劇にどう立ち向かったのか?


詳細情報

番組内容

小さな村がある日突然、未曾有の事態に陥った!1999年9月に起きた東海村臨界事故。茨城県東海村にある核燃料加工施設で、核分裂反応が連続して起き、大量の放射線が放出されたのだ。国内で初めて原子力事故による死者を出し、660人あまりが被ばく、広域な住民避難を迫られた。住民避難を決断した村役場、大量被ばくした患者の治療にあたった医師、事故に巻き込まれた住民たちが明かす、緊迫と苦渋のアナザーストーリー。

出演者

【司会】松嶋菜々子,【語り】濱田岳



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アナザーストーリーズ「東海村臨界事故 終わらない闘い」1999年9月
  1. 事故
  2. 放射線
  3. 住民
  4. 患者
  5. 東海村
  6. 臨界
  7. 施設
  8. 治療
  9. 大量
  10. 前川
  11. 臨界事故
  12. 医師
  13. 原子力
  14. 事態
  15. 村上
  16. 避難
  17. 数値
  18. 夫婦
  19. 原子力事故
  20. 作業員


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あの日 原子力の安全神話は

もろくも崩れ去った。

遡ること 12年前。

日本の原子力事故で 初めて
犠牲者を出す出来事が起こっていた。

もう ほんとに 戦場のような
状態になっておりました。

あの時 村で 一体何が起こっていたのか。

♬~

現在 日本にいくつ原子力発電所があるか
皆さん ご存じですか?

北海道から九州まで
日本列島の沿岸沿いに…

しかし その多くは
現在 稼働していません。

その理由は 2011年3月に起こった
東京電力福島第一原発事故。

原子力は 天災や大事故などで
扱い方を間違えると

大きな脅威に変わる事を
まざまざと思い知らされました。

しかし 福島の事故を遡ること 12年前

日本で初めて
原子力事故による犠牲者を出し

周辺住民が避難を強いられた出来事が

茨城県の東海村で起こっていたのです。

それは 今から20年前のことだった。

放射能漏れ事故のニュースが
入っています。

事故が起きたのは 東海村にある 民間の…

施設から大量の放射線が放出された。

施設の中では 原子力が
制御不能の状態に陥った。

住宅地の真ん中に いわば
「裸の原子炉」が現れたのだ。

今日の事態というのは 我が国でも

経験したことのない事態でございまして。

原子力事故で 住民が避難を強いられる。

それまで日本が経験したことのない事態。

そういうふうな…

大量の放射線を浴びた作業員の体は
皮膚がなくなり 体液が染み出した。

そして 再生されてこない。

悲劇は なぜ起こってしまったのか。

運命の分岐点は

1999年9月30日 午前10時35分。

東海村で臨界事故が発生した時です。

臨界事故が起こったのは
茨城県東海村にある…

そして その施設のすぐそばには

住宅地が広がり
人々の暮らしがありました。

しかし住民たちは この日 突然
いやおうなしに事故に巻き込まれ

放射線の脅威にさらされたのです。

第1の視点は 事故発生当時
自らも被ばくしながら

周辺住民の避難に当たった
東海村役場の職員たち。

事故のさなか
住民の命を守るために奔走した人々の

緊迫のアナザーストーリーです。

よし。 はい はいはい…。

男は 20年前のあの日
極限状況の中で決断を迫られた。

当時 現場の最前線に立った…

国内初の原子力事故による住民避難に
奔走した。

住民を守るため 放射線の中を奔走した
村役場の闘いとは…。

茨城県北部にある東海村。

かつては 村の入り口に

それが自慢であるかのように
こんな看板が立っていた。

「歓迎 原子力の街
東海村へ」。

しかし 事故後
「原子力」の文字は外された。

「原子力の街 東海村」。

それは この村に 日本で初めての
原子力施設がつくられたからだ。

以後 多くの関連施設が立地されていった。

そんな東海村で生まれ育った川又にとって
原子力は特別なものではなかったという。

川又は 大学を卒業後 村役場に就職。

原子力の安全性について
当時は あまり意識したことはなかった。

その日の天気は快晴。

事故は 住宅地の真ん中にある

核燃料加工会社の
施設で起こった。

施設の放射線漏れを知らせる警報機が
突然 鳴り響いた。

当時 地元消防署の
救急隊長だった…

施設からの通報を受け 事故発生から
11分後には現場に到着した。

通報時 事故の内容を十分に知らされず
小林たちは防護服も着ないまま

放射線が出ている現場で
倒れた作業員の救助を行った。

その時 小林は 施設内の職員たちの様子に
違和感を抱いた。

この時 施設の中では 大量の放射線が
放出される事態が起きていた。

臨界だ。

臨界とは ウランなどの核燃料が
一定量集まった時に 青い光を放ち

核分裂反応を続けながら
大量の放射線を放出する状態のこと。

ところが 施設では
作業効率を上げ 核燃料をつくろうと

一つのタンクに 規定を超える
大量のウラン溶液を流し込んでしまった。

そして 予期せぬ臨界が
起きてしまったのだ。

JCOが ようやく
政府に第一報を伝えたのは…

しかし 詳しい情報は ほとんどなかった。

事故は起こらないという思い込みが
対応を遅らせていたのだ。

報告を受けた政府も
事故に対する認識が甘く

すぐには動かなかった。

そして 事故発生から1時間後

政府に送られたのと同じ内容の
ファックスが 役場に第一報として届く。

東海村で生まれ育った川又も ふだんは
原子力事故について考えたことはない。

事の重大さに気付かず
いつもどおり 昼食に出てしまった。

しかし すぐに上司に呼び戻され
役場に戻った時には

職員たちは事態が分からず混乱していた。

更に 不運なことに

対応の指揮を執るべき村長が
出張で村を離れていた。

村長の村上に第一報が入ったのは
出張先の栃木に向かう途中だった。

村上は 戸惑いながらも

住民たちに外に出ないように
防災無線で伝えることを指示。

事故に半信半疑だった村上だが

村に近づくにつれ
ただならぬことが起きていると悟る。

おやおやおや
これは大変なことになってるなと。

静かな村が 次第に
ものものしい雰囲気になる。

住民たちも異変を感じ始めていた。

まず 分からなかった。

向こうの方が何か起こしたとかいって。

村の小学校も 役場の防災無線を聞き

事態が分からないまま
子供たちを校舎内に退避させていた。

このころ 事故の第一報が
テレビやラジオで報道される。

放射能漏れ事故のニュースが
入っています。

この時の
報道では

「臨界」という
言葉はない。

まだ詳しい情報が
入っていなかった。

村上が役場に戻ったのは…

まだ事故を信じきれない村上。

しかし 加工施設から届いたあるデータに
血の気が引いた。

放射線の線量は 測定が容易な
ガンマ線で測られることが多い。

12時半頃に測定した施設周辺のガンマ線は
0.84ミリシーベルト。

それは 健康を守るために定められた

年間被ばく限度の数値と

ほぼ同じという 高い線量だった。

それでも 村上は

臨界が収束しつつあるのでは
という期待も持っていた。

臨界は初めに激しい核分裂をしたあと
すぐ収束することもある。

そうであれば 放射線は下がり

住民避難など これ以上の対応は
必要なくなる。

しかし その期待は すぐに打ち砕かれた。

放射線量が ほとんど下がっていない。

臨界は続いていると
考えざるをえなかった。

それでも村上には 住民避難をためらう
ある葛藤があった。

それは 東海村が原子力の街だから。

原子力と共に歩んできた村の歴史。

村は 原子力発電所をはじめ
関連施設を受け入れることで

巨額の交付金や補助金を手にしてきた。

その資金で村は発展していった。

そんな東海村が
原子力事故で住民を避難させる。

その責任は大きかった。

だが 施設の職員が放射線の被害を計算。

350メートル圏内の住民避難を訴えに来た。

話を聞いた村上は
ついに臨界継続を確信した。

しかし 小さな村が独断で
避難を決めるわけにもいかない。

村上は 国と県の指示を仰ごうとした。

一方 そのころ ニュースでは…。

(末田)茨城県によりますと 全ての
モニタリングポストの放射線の数値は

昼頃には通常の値に戻っている
ということです。

核分裂反応が連続して起きる 臨界による
事故の可能性が高いということです。

放射線の数値は収まっている。

しかし 臨界の可能性がある。

事態は収束しているのか いないのか
情報は錯そうしていた。

この時点では 政府は ようやく
事故概要の報告会をしている段階だった。

日本が経験する
初めての深刻な原子力事故。

どこにも どう対処すべきなのか
青写真がなかったのだ。

取り残された東海村。

村の行く末は 村長の村上に委ねられた。

そして…。

それで とにかく 分かったと。

で…

施設から350メートル圏内に住む

およそ160人の住民の避難が始まった。

東海村単独の決定だった。

その避難作戦は
すぐに川又にも伝えられた。

住宅地図みたいなのに こう

線が何となく書かれてて
このエリアをやってこいと。

職員50人ほどで輸送班を編成して
放射線の飛び交う住宅地に突入。

住民を確実に避難させるため

避難区域の住宅を一軒一軒 回り

離れた避難所まで車で輸送する。

川又の担当エリアは

臨界が起こっている施設から

100メートルほどしか離れていない。

まさに 最前線だった。

担当エリアに到着した川又。

しかし 見えない放射線への恐怖は薄く

住民たちは 突然の避難要請を
なかなか受け入れない。

訪れた老夫婦の家での会話を
今も鮮明に覚えている。

そんなニュアンスの言葉を言われて

「いや そういうことはないですから」
みたいな。

置き去りになどできるわけもなく

川又は介護用の車を手配。

放射線が検出される現場で

到着を待ち続けた。

そして 避難所となった公民館には

職員たちの奔走により
住民たちが集まってきた。

(取材者)すいません
避難されてきたんですか?
そうですよ。

中に椅子が用意してありますので…。

一方 このころ 政府の反応は…。

現在の報告では

これ以上 拡大をしないものと
認識をしとるわけでございます。

政府は 臨界は収束したものと
判断し始めていたのだ。

その大きな理由は ガンマ線の数値が
徐々に下がり始めていたからだ。

しかし ガンマ線だけで
臨界が収まったと判断することに

疑問を抱く男がいた。

日本原子力研究所の所長だった齋藤は

臨界と聞いて
独自に ある数値を測定していた。

臨界時に放出される…

施設周辺では ガンマ線と併せて
その中性子線が出続けていた。

私にすれば…

待っていても臨界が収まる保証はない。

齋藤は 研究所の専門家たちと
作戦会議を始めた。

そして ある一つの作戦を提言する。

それは 臨界を継続させている条件を
取り除くことだった。

…の外側は 冷却水に覆われている。

齋藤は この水が
外に出る中性子線を反射させ

核分裂反応を継続させていると考えた。

つまり 冷却水を抜けば
タンクの中の中性子線は減り

臨界が止まる可能性がある。

齋藤たちは
この水抜き作戦にかけることにした。

政府にも 中性子線の数値が知らされる。

夜9時 ようやく
首相をトップとする対策本部が設置。

臨界発生から 10時間半後のことだった。

今日の事態というのは 我が国でも

経験したことのない事態でございまして

それだけに 万全な体制を

これから… 遅れておりますけれども

とってまいらなくてはならない…。

ここで 予定を変更して
ニュースをお伝えします。

事故の詳細と 危険性が
ニュースでも報じられる。

(平石)
JCOの敷地の周辺では
その後も

核分裂反応によって
放出される臨界が

続いている可能性が
大きいと見られています。

臨界発生から半日たって ようやく
事態の深刻さが明らかになり

東海村に続く交通機関も閉鎖。

茨城県は 
半径10キロ圏内の住民の

屋内退避を要請。

そのころ 既に東海村では
ほぼ避難が完了。

住民たちは不安な夜を過ごしていた。

深夜1時40分 現地の事故対策本部は
水抜き作戦の実施を決定。

緊迫する現場で冷却水が抜かれる。

6時半ごろ ようやく
周辺の放射線の数値が下がり

臨界停止が確認された。

ほっとしたというのが あれだなぁ
うれしいというか…

事故から2日後。

350メートル圏内の住民たちの
避難解除が決定した。

この事故で
およそ660人が被ばくしたとされる。

住民たちに大きな健康被害は出ていない。

しかし 住民たちは
不安に さいなまれ続けることになる。

事故を起こした核燃料加工会社。

その後の調査により
バケツで核燃料を扱うなどの

ずさんな違法作業を
日常的に行っていたことが判明。

核燃料加工事業の許可は
取り消しになった。

その後 事故の責任を問う刑事裁判で…

東海村には今も
12か所の原子力関連施設がある。

川又は今 東海村の
防災原子力安全課課長という要職にある。

臨界事故の経験から 原子力施設の視察や
監視に忙しい日々だ。

東海村にある核燃料加工施設で起こった
臨界事故。

事故発生の原因となったのは
ウランを濃縮する作業でした。

施設の中では 2人の作業員が
ウラン溶液を容器に流し込んでいました。

臨界が起きる危険性については
何も聞かされていなかったのです。

突然 青い光を放つ強烈な放射線が
2人を襲い

致死量の基準値を上回る
大量の放射線を被ばく。

2人の尊い命が奪われました。

第2の視点は
この被ばくした作業員を治療した医師…

前例のない臨界事故の治療に
奔走した医師が

その果てに見たものとは?

壮絶な被ばく治療に挑んだ医師の

闘いと苦悩の アナザーストーリーです。

東海村を突然襲った臨界事故。

それは 日本の原子力事故で
大量に放射線を被ばくした患者を

初めて出すことになった。

患者の治療に当たった
医療チームのリーダー…

事故から20年たった今も
当時のカルテを手元に残している。

放射線を被ばくするということが
人体に何をもたらすのか。

医師たちは
医療の無力さを突きつけられた。

ほんとに あの…

臨界事故が発生した その日

大量の放射線を被ばくした作業員が
運ばれたのは

千葉県にある放射線医学総合研究所。

当時 東京大学病院の救急医で

被ばく医療・専門委員会の委員だった前川。

患者が運ばれる
そのニュースを見て驚いた。

大きな被ばくがあったのではと
前川は すぐに患者が運ばれた

研究所へ向かうことに。

そこで 患者たちの被ばく線量の
データを見て 言葉を失った。

一番多く被ばくしたのは…

ウラン溶液を流し込んだ作業員だった。

被ばく量は 一般人の年間被ばく限度の
およそ2万倍。

途方もない数値だった。

大内さんは
妻と息子がいる3人家族の大黒柱。

それが あの日 突然
致命的な放射線を浴びてしまったのだ。

それほど大量の放射線を
被ばくしたにもかかわらず

医師たちは 患者の容体に
意外な印象を持った。

意識もしっかりし 会話もできたからだ。

前川と共に治療に当たった 医師の…

これほど大量に被ばくした患者を見た
経験がある医師は一人もいない。

もしかすると
助けられるのではと希望を持った。

集中治療ができる
前川の東京大学病院に患者を搬送。

そこから 本当の闘いが始まる。

外見には大きな変化は見られないものの
検査を進めるうちに

前川たちは すぐに
被ばくの本当の怖さが分かってきた。

それを思い知らされたのは
患者の染色体を調べた時だ。

本来の染色体の形は 1つのくびれがある。

しかし 大量の放射線を浴びた染色体は
バラバラに断ち切れ

染色体同士が合わさり
くびれが2つになっていた。

中には くびれが
3つもあるものまであり

多くの染色体が破壊されていたのだ。

ヒトは遺伝子情報を持つ染色体によって

新しい細胞をつくりながら生きている。

大内さんは 新しい細胞をつくることが
できない体になっていたのだ。

その症状がまず現れたのは 血液だった。

新しい血液がつくれなくなり

体の免疫をつかさどる
白血球の数が急激に減少。

前川はすぐに 患者の家族からの
血液細胞の移植を決める。

更に 肺に出血が起こり
呼吸が悪化し始めたため

肺の治療にも取りかかる。

しかし 容体は悪化の一途をたどる。

その日々は 患者にとって
大きな苦しみになっていた。

当時のカルテに 本人の声が残されている。

「おれはモルモットではない」。

被ばくから11日目 突然 呼吸困難になり
人工呼吸器による治療が開始。

それは 患者がもう自身で
会話ができないことを意味していた。

大量被ばくの恐ろしさは
前川の想像をはるかに超えてくる。

それをまざまざと感じさせたのは
患者の皮膚だった。

これは 被ばくから4日目と20日目の写真。

皮膚の細胞が生まれ変わらず
変色し 剥がれ落ちてきた。

皮膚は なくなっていき
血液と体液が染み出す。

皮膚移植を施すが
完全には張り付かなかった。

私は ただただ その… 目の前で…

更に放射線は
体の内部も むしばんでいた。

あらゆる消化管から
大量の出血が始まったのだ。

最初は 僅かな希望を持って始めた治療。

しかし 変わりゆく患者の姿に
医療チームの心は揺れた。

「命を無理やり
引き延ばしているだけではないのか」と。

当時 新人研修医として
医療チームに参加していた

山口和将も
その迷いを感じていた。

前川は そんな医療チームの
胸の内を知りながらも

毅然として治療を諦めなかった。

大内さんの…

それが…

患者の治療を支援した
医師の明石真言は

その時の前川の思いを
聞いていた。

研修医だった山口和将も

自分が患者と家族に
何ができるかを考え続けていた。

皆 それぞれの思いで
大内さんと向き合っていた。

しかし 被ばくから59日目の朝。

心臓が 突然停止。

心臓マッサージを1時間続けると
なんとか動きだした。

しかし心停止により 臓器がどれだけ
ダメージを受けたか分からない。

前川は 家族の覚悟のためにも
死が近いことを伝えた。

家族は 今度 心臓が止まっても
延命措置をしないことに同意した。

そして 被ばくから83日目

大内さんは息を引き取った。

そのころ 既に医療チームを離れていた
山口芳裕は

大内さんが亡くなったことを
ニュースで知った。

まだ…

その後 前川のもとに

大量に放射線を被ばくした
もう一人の作業員が運ばれてくる。

その患者は
大内さんと比べると 被ばく量は低く

事故から6か月もの間 治療が続けられた。

しかし 容体が悪化し…

…に 息を引き取った。

前川たち医師の
壮絶な治療の日々は終わった。

やっぱり…

救うことができなかった 2つの命。

しかし 治療に関わった医師たちは
12年後

大きな役割を果たすことになる。

2人の尊い命を犠牲にした
東海村臨界事故。

それは長く続く
苦難の始まりでもあったのです。

事故が起きた施設のすぐそばには
職場や生活の場があり

人々の営みが広がっていました。

そこにいた住民たちは 被ばくによる
健康への不安や恐怖に さいなまれます。

第3の視点は
事故に巻き込まれた住民たち。

特に 施設から道路を一つ隔てた場所で
被ばくした

大泉昭一さん・恵子さん夫妻は

その後の人生を
大きくゆがめられることになりました。

臨界事故から始まる
苦しみのアナザーストーリーです。

事故の恐怖に 長く苦しんだ夫婦がいた。

その夫婦は もうこの世にはいない。

事故前の 元気だったっていうか…。

旅行は好きな人で 旅行の写真
あっちこっち残ってますけどね。

夫婦は 亡くなった2人の作業員のような
大量被ばくはしていない。

しかし
事故が心に影を落としていくさまを

息子の実成は見ていた。

住民たちが背負った
臨界事故の そのあとの苦しみとは…。

事故のあった施設から
僅か130メートルほどの所に

大泉夫婦が営む
小さな自動車部品工場があった。

旅行が好きな昭一さんと
明るく働き者の恵子さん。

仲むつまじい夫婦だった。

2人はあの日
いつもと変わらず工場で働いていた。

事故が起こり 訳が分からないまま
避難することになる。

避難所で放射線量を測定。

問題はないとされ
隣町の自宅に帰ることにした。

後に詳しく検査を受けると…

健康への影響が確認されている
線量と比べると

低い数値だった。

昭一さんは事故後
1週間もしないうちに工場を再開。

しかし 恵子さんの心には既に
異変が生じていた。

恵子さんは工場に近づくと

事故や被ばくの恐怖が頭をよぎり
不安を訴えるようになっていた。

医師にみせると 恵子さんは

PTSDという診断だった。

更に昭一さんにも異変が起こる。

持病の皮膚炎が悪化し 入院することに。

事故によるストレスが原因と考えられた。

夫婦はともに満足に働けなくなり

工場は1年余りで 閉鎖に追い込まれた。

家族の怒りは当然
事故を起こした会社へ向かった。

補償を求めたものの
会社は因果関係を認めようとはしない。

納得などできるわけもなく
裁判に訴えることを考えた。

しかし…。

ちょこっと数人が…

2人の浴びた線量で
健康被害を証明するのは難しく

依頼を受けてくれる弁護士はいなかった。

もちろん 事故に苦しめられたのは
大泉夫婦だけではなかった。

茨城県では いわゆる風評被害が発生。

農作物が売れなくなり
宿泊施設のキャンセルが相次いだ。

当時 東海村の隣町のひたちなか市で

老舗旅館を経営していた…

2年先まで埋まっていた予約は
放射線の恐怖から全てキャンセルになり

収入がいきなりゼロになる。

初鹿野は事故から2か月後
旅館を閉めざるをえなくなった。

そして工場を閉鎖し
健康被害を訴えていた大泉夫婦の前に

ようやく裁判を引き受けてくれる
弁護士が現れる。

民間の事故調査委員会の
メンバーでもあった…

伊東には勝算があった。

2002年9月 大泉夫婦は
伊東と共に裁判を始める。

夫婦は 事故の恐怖
そこから始まった苦しみを

法廷で訴え続けた。

8年間続いた裁判。

一審・二審ともに
夫婦の訴えは退けられた。

2010年に最高裁が上告を棄却し…

事故と恵子さんのPTSDの因果関係は
認められなかった。

伊東は この判決に耳を疑った。

しかし夫婦は 裁判に負けても
その闘いをやめなかった。

夫婦は事故を風化させたくないと

「臨界事故を語り継ぐ会」をつくり

全国を回った。

夫の昭一さんは…

妻の恵子さんは 去年亡くなるまで

事故について 語り続けていた。

そして 今。

息子の実成は
亡くなった両親のあとを継いで

事故の恐怖と両親の闘いを
語り継いでいる。

人々を傷つけ 深い傷痕を残した
東海村臨界事故。

それから12年後に起きた
福島第一原発の事故。

原子力とどう向き合っていくべきか

日本人一人一人に
我が事として考えさせました。

私たちは 20年前の事故の教訓を
十分に生かせたのでしょうか?

あの事故は
まだ過去の出来事ではないのです。

福島第一原発の原子炉建屋が 爆発。

原子炉を冷却するため

ハイパーレスキュー隊による
注水作業が決定した。

現地には 東海村臨界事故の際
患者の治療に当たった

医師の山口芳裕の姿があった。

臨界事故のあと アメリカに留学し
最先端の被ばく医療を身につけた山口。

福島では
レスキュー隊の被ばく管理を担当。

隊員たちが大量の放射線を浴びるリスクを
回避するために 奔走した。

しかし隊員たちは

自分の健康を心配して活動を制限したら
被災地に来た意味がないと

山口と激しく衝突した。

隊員たちは皆 健康への影響が
確認されている線量を上回ることなく

無事に任務を終えた。

臨界事故の風評被害で
旅館をたたんだ初鹿野。

その後 経営コンサルタントに転身。

福島の事故で
再び風評被害が起こった時は

地元企業を助けることに
尽力した。

あの時 旅館をたたんでしまった
自分自身への思いからだった。

どちらかというと。

そして 臨界事故のあと
被ばく医療の教材を作るなど

医療体制の強化に奮闘してきた前川。

福島の事故は 被ばく医療に
新たな課題を突きつけたという。

闘いは 今も続いている。


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