アナザーストーリーズ「平成回顧スペシャル」昭和64年1月7日、昭和天皇崩御を受けて即日決定したとされる新元号…



出典:『アナザーストーリーズ「平成回顧スペシャル」』の番組情報(EPGから引用)


アナザーストーリーズ「平成回顧スペシャル」[字]


誰もが知る平成の出来事の、もう一つの物語!昭和64年1月7日、昭和天皇崩御を受けて即日決定したとされる新元号の真相。山一証券を破たんへ導いた雑誌記者スクープなど


詳細情報

番組内容

人々の記憶に残る平成の出来事。その裏側をあなたはどれだけ知っている?昭和64年1月7日に発表された新元号「平成」。選定作業は昭和天皇崩御を受けて始まり、即日決定したことに表向きはなっている、が事実は…?!平成9年の山一証券破たん。歴史的な破たん劇の引き金を引いたのは実は一人の雑誌記者のスクープ記事だった!多くの悲しみをもたらした東日本大震災。日本のために行動した外国人たちの知られざる物語とは。

出演者

【司会】松嶋菜々子,【語り】濱田岳



『アナザーストーリーズ「平成回顧スペシャル」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

アナザーストーリーズ「平成回顧スペシャル」昭和64年1月7日、
  1. 平成
  2. 山一
  3. 日本
  4. 発表
  5. 野澤
  6. 的場
  7. 記事
  8. 元号
  9. 新元号
  10. 募金
  11. 時代
  12. 藤橋
  13. 木村
  14. スクープ
  15. 昭和
  16. 仮野
  17. 号外
  18. 資料
  19. 事態
  20. 社員


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♬~

今年5月 1つの時代が終わりました。

30年余り続いた「平成」。

思えば いろいろなことがありました。

♬~

今日は 誰もが知る平成の出来事を
独自の切り口で振り返る…

まずは 元号「平成」の発表について。

表向きは 昭和天皇崩御の日に決まった
と言われていますが…。

極秘に準備を
進めていた人たちのみが知る

ひそかな駆け引きの
アナザーストーリー!

昭和64年1月7日。

「昭和」が終わった。

この日の朝…

新しい元号は 平成であります。

そのわずか8時間後
新元号「平成」が発表された。

同じ新元号でも
「令和」と「平成」では事情が違う。

令和は 皇位継承のため
前もって発表されたが

平成は 昭和天皇崩御から 発表までの
8時間の間に考案され 決まった…。

表向きは そうなっている。

そのため 元号決定までのプロセスは
秘密のヴェールに包まれていた。

だが 実際には元号選定の作業は

はるか前から ひっそりと進められていた。

その密命を受けた男の名は…。

当時 言われてたの。

しかし 秘密のヴェールを剥がし
スクープを取ろうとした新聞記者がいた。

これは元号「平成」を巡る
水面下のアナザーストーリー。

的場は 京都大学を卒業後 大蔵省に入局。

両内閣のもとで 内閣内政審議室長となる。

内閣と各省庁にまたがる
重要事項を調整する役目だ。

もう 根回しでね…

その辺りと相談をして
落としどころっていうのを考えて

そして野党も まぁ大体これは
大丈夫でしょっていうことで

落としどころ作るんだから。

「新元号の仕事がある」と
ひそかに知らされたのは

昭和60年
前任者からの引き継ぎの時だった。

なぜ言っちゃいかんかというと…

そんなことで 誰にも相談できずに
やらなきゃいかん。

天皇が存命の間に 次の元号を考えるなど
不謹慎と言われかねない。

だからこそ 準備は内密なのだが…。

的場が動かざるをえない事態が起きる。

実は前任者から
3人の学者が考えた新元号案を

ひそかに知らされていたのだが
そのうち2人が相次いで亡くなったのだ。

建て前上 天皇崩御の後に作る新元号案。

その考案者が
先に亡くなっていてはまずい。

急ぎ新たな候補者を
決めねばならなかった。

だから ものすごく大変ですよ。

配慮することは他にもあった。

学問の塊というのはね
北海道にも東北にもね

東京にも名古屋にも
関西にも九州にもあるじゃないですか。

そうすると そういうものに照らして
学者仲間がどう思ってるかということも

忖度しないと困るんですよ。

的場は 苦労の末に選んだ考案者から

極秘で元号案を受け取った場所を
教えてくれた。

久しぶりだ。 あぁ…。

懐かしいなぁ。

密会の相手は 東大名誉教授で…

彼が考えた案こそ 「平成」だった。

平成っていうの見た時に
ああもう これだなと思ったもん。

平成っていうのは 字を見たら
平らに成るんだから

天と地にね 平和が来るんだと
いうのが分かるじゃないですか。

今では 他の元号案も明らかになった。

中国文学の…

中国哲学の…

だが ただ案を作ればいいわけではない。

3案全て
厳密な事前チェックが必要だった。

それは 政府が定めた6つの条件。

日本はもちろん
過去に元号を使用していた

中国 韓国 ベトナムの史料も精査した。

そして この条件。

俗用されてないということは
どういうことかっていうと 要するに…

機密保持のため
作業は たった2名で行った。

商標だけでも500万。

地名や会社名なども
しらみつぶしにチェックする。

パソコンなどない時代
全ては手作業だった。

時には地方まで資料を求め 出向いた。

(アナウンサー)え~ 発表があったようですが
どういう状況でしょうか?

夕方 若干の下血

つまり 腸を通って
下に出血する

若干の下血があったという発表が
ただいまありました。

的場は 運命の日を覚悟した。

同時に 新元号のスクープを狙う
記者たちの取材合戦が過熱。

的場にも番記者が張り付いた。

この時 スクープを狙った仮野忠男。

毎日新聞官邸キャップとして
新元号の取材を任された。

…と思って引き受けましたね。

ただし これで失敗したら ははっ…。

つまり ん~… 他社に抜かれたり

あるいは新たな元号報道で

誤報を犯したりすれば
クビだなと思ってました。

だが ターゲットにした的場から
恐ろしいひと言を返された。

的場さんを追いかけてた記者たちが
追いかけてたら

官邸内で歩きながら いろいろ聞いてたら
的場さんが足を止めて

毎日さんなら分かるだろうけど…

…って言われるわけですよ。

仮野を震え上がらせた…

話は明治の終わりに遡る。

この時 新元号が大正だと
スクープしたのは朝日新聞。

毎日の前身 東京日日新聞は苦杯をなめた。

その15年後
今度は日日が次の元号を入手。

「新元号は光文」と号外で報じた。

ところが…。

数時間後 正式に発表された
元号は「昭和」だった。

情報が漏れたため 急きょ宮内省が
昭和に変更したという話もあるが

真相は明らかになっていない。

世に「光文事件」と呼ばれた この大誤報で
日日は 編集主幹が辞職に追い込まれた。

それは毎日新聞の
悲願であり プレッシャーでもあった。

だから毎日新聞にとってみると
2連敗してるわけですよ。

3連敗は許されないだろうなと。

何とか取り返したい。

もし それができれば 毎日新聞みんな
元気になるんじゃないかという思いは

私自身も含めてね 考えましたね。

そのためには
的場以外の情報源を探す必要があった。

折よく 1人の記者が
官邸内の「ある人物」に目をつけた。

仮野は関係者の名を伏せることを条件に
この秘話を明かした。

ある時 今日キャップ
その人の奥さんが誕生日で

かなり広く 誕生会みたいのをやるという
ことになって 呼ばれたんですと。

おおそうか。 それはいいことだ。

じゃあね 奥さんに
花束を持っていきなさいって。

金は僕が出すって言って。

そうこうしてるうちに
協力してもらえそうな空気が漂い始めた。

仮野たちは この人物を
ウォーターゲート事件の情報源に倣って

「ディープ・スロート」と呼んだ。

そして 運命の日。

天皇陛下には 本日 午前6時33分

皇居において 崩御されました。

誠に哀痛の情に堪えません。

国民とともに
心から ご冥福を お祈りいたします。

この瞬間から
新元号選定は一気に動き出す。

新元号の発表は 崩御から7時間

臨時閣議決定後を予定。

的場はそれまでに
有識者や閣僚などと会議を行い

3つの案から絞り込む作業を
済ませねばならない。

いたずらに議論が紛糾すると
収拾のつかない事態になる。

的場は全ての会議で

「修文と正化は頭文字がSになり

昭和とかぶる。

平成のHが
据わりがよいでしょう」と説明した。

それはまぁ あれだなぁ たまたま…

出席者たちには厳重なかん口令が敷かれ
トイレに立つのも監視された。

しかし この後
毎日新聞に慌ただしい動きがあった。

これぐらいの小さな紙片でしたけど
鉛筆書きで「平成」と漢字だけでした。

え~…。

これ受け取って おお なるほど。

…って聞いたら そうですと。

この時 正式発表の35分前。

仮野は本社に
すぐ号外を出してくれと頼んだ。

しかし 編集局長からは
「情報は確かか? 裏を取れ!」との指示。

だけど俺はもう 取らないと。

仮野は 確認はしないと本社に告げた。

それで そうこうしてるうちに
どんどんどんどん 時間たつんだね。

午後2時36分。

新しい元号は 平成であります。

毎日新聞本社は誤報を恐れ
号外を出さなかった。

しかし 「平成」の二文字を入れた記事を
準備しておき

発表と同時に いち早く輪転機を回した。

そして 他社より1版早い

3版で記事を発表した。

やはり 国民が知りたいことを
できるだけ早く 国民に知らせてあげる。

それに早く応えることが

ジャーナリストの使命だと
僕は思ってます。

だが発表後 まさかのことが。

平成村があったのだ。

そうですかって。

平成が使われていないか
大字までは調べたが

小字に その字があったのは
気付かなかった。

この村は 平成の始まりとともに
一躍有名になった。

平成という時代が始まってまもなく
人々の生活は大きな変化に直面しました。

この時の税率は
3%でした。

そして 平成3年から5年にかけて
いつの間にか景気は後退し

バブル崩壊を迎えます。

こうした
さまざまな経済的変動が起きたのも

平成という時代の特徴でした。

中でも鮮烈だったのは…。

創業100年をこえる老舗の証券会社

山一証券の 突然の経営破たん。

平成9年 日本中を驚かせた出来事でした。

実は この大企業を
廃業へと追い込んだのは

たった1つの記事であったことを
ご存じですか?

図らずも経営破たんの引き金を
ひいてしまった男の

アナザーストーリーです。

号外で~す! はい号外で~す!

それは 歴史的な倒産劇だった。

負債総額は 戦後最大となる…

グループ社員1万人以上が職を失った。

全ての責任を負った社長。

私らが悪いんであって
社員は悪くありませんから!

どうか社員の皆さんに
応援してやって下さい!

お願いします!

破たん劇の引き金をひいたのは
実は…

「山一に不正の重大疑惑あり」。

このスクープから わずか7か月で
100年の歴史を誇った山一は廃業に至る。

記事を書いたのは この男。

今も現役の経済記者だ。

これが スクープのもととなった資料。

帳簿の数字や 生々しい会話の記録が
重大な疑惑の根拠となった。

なぜ木村は
この資料を手にするに至ったか?

全ての始まりは
木村を指名して かかってきた

1本の情報提供の電話だった。

それは最初もそうだけど…

何でもかんでも…

「とにかく見せたいものがある」
そう言い張る男に会うと

封筒から取り出した
30枚ほどの資料を見せられた。

「詐欺で訴える」。

山一証券の社長に向けて 顧客が発したと
される 赤裸々なやりとりが。

「いっぺんに返せんから 2~3百はやると
あんた 言いはったでしょ」。

更に その会話を録音したテープも
持ち込まれた。

一連の資料は 山一が 法律違反にあたる

「損失補てん」を行っているという疑惑を
におわせていた。

例えば ある顧客に5, 000万で売った株の
価値が下がってしまったとする。

本来 その責任は
株を買った客の側にある。

だが山一は その損失を補てん。

その代わりに 引き続き
株を買ってもらえるよう頼んでいた。

ただし これをするのは 大口の顧客だけ。

いわば 一部の取引先だけを
不当に優遇していたのだ。

「いっぺんに返せんから 2~3百億ずつ」。

その文面は 山一の損失補てんを
におわせるものだった。

木村による
山一不正疑惑追及の幕が上がった。

山一に運用を委託していた
企業の実名をあげ

その企業に 山一が
いくら補てんしたか

金額入りで疑惑を報じた。

これに対して
山一は記事の内容を否定するとともに

東洋経済を名誉毀損で告訴すると
強気の構えを見せた。

だが 木村が第2弾の記事を出すと
山一の幹部から

「内密に会いたい」という連絡が入った。

そして ある取り引きを持ちかけてきた。

木村は答えをはぐらかす。

そして逆に
あの疑惑について カマをかけた。

男は答えた。

木村は山一の圧力をはねつけ
第3弾の記事の準備に入った。

同じ時期 山一は
急きょ経営陣を刷新していた。

後に粉飾決算の容疑で逮捕される
社長と会長が辞任。

新社長に指名されたのは

これまで社長レースに
名前があがったこともない

野澤正平だった。

野澤は 損失隠しを
知らされていなかったという。

あの時 社長の最も近い場所にいた…

藤橋は
山一の中枢といわれる企画室長。

早い段階で損失の存在を知らされていた。

新体制になって数日後

藤橋は同僚から
耳を疑う情報を聞かされる。

藤橋は野澤に 包み隠さず事実を伝えた。

会社は損失を帳簿上 隠していること。

その額は もはや会社の存続が
危ういほどまで膨れ上がっていること。

(藤橋)野澤さんは話を聞いていく度に

だんだんだんだん
こうやって 頭がね 下がってね。

だから全部説明を聞き終えたあとはね
多分 何にも発言しなかったと思う。

もうね
がっくりきたんじゃないのかなぁ。

その2日後。 野澤は藤橋を呼んだ。

社員を守るための…

給与カットとかね そんなのいい
要するに…

役員も半減
その代わり 人もこれだけ切る。

野澤たちは
ぎりぎりの生き残り策を練り始める。

まずは誰かに明かされる前に

隠してきた2, 600億円の損失を
公表すること。

しかし9月
あと数日で公表すると決めた矢先…。

総会屋への利益供与で
取り調べを受けていた…

山一は非難の的となる。

謝罪に追われた野澤たち。

この逆風の中で 新たな火種になる
損失隠しを公表できなくなった。

更に メインバンクからも救済を断られ
自主再建の道を断たれる。

野澤たちは 最後の砦
大蔵省に助けを求めた。

全てを証券局長に話した。 すると…。

野澤たちは
その言葉を 救済だと受け取った。

だが その3日後 思いがけない事態が…。

木村記者の…

損失を隠していたことが
大々的に報じられ

世間の空気が一変した。

記事は こう結ばれていた。

「再生への道の第一歩は

『過去の懺悔』から
始まらなければならない。

後は本当に 『自然死』を待つのみである」。

2日後 野澤たちが
大蔵省から告げられたのは

前回とは全く逆の言葉だった。

くしくも この年
創業100年を迎えた山一証券。

その歴史は ほんの5分で幕が引かれた。

自主廃業の発表は 5日後と決まった。

会見前夜。

野澤と藤橋は 本社18階にある
部屋に泊まり込み

カップ麺をすすりながら
会見の準備を続けた。

もう気持ち的にはね。

藤橋が床につくと

会見に備え 一生懸命練習する
野澤の声が聞こえた。

(シャッターやフラッシュの音)

当社 誠に残念ながら

この度 自主廃業に向けて
営業を休止することを決定いたしました。

図らずも当社100周年を迎えて
このような事態になりましたことは

誠に断腸の思いでございます。

会見場で この様子を見ていた木村。

複雑な思いだったという。

経営責任を追及する厳しい問いにも
淡々と答え続けた野澤。

2時間がたった頃。
記者から…

…との質問が
出た時だった。

これだけは言いたいのは

私らが悪いんであって
社員は悪くありませんから!

どうか社員の皆さんに
応援してやって下さい!

お願いします!

平成の世を揺るがせたのは
経済的な事件だけではありませんでした。

雲仙普賢岳の火砕流。

次々と大災害に襲われながらも
力強く立ち直った時代

それが平成でした。

最後に取り上げるのは
その象徴とも言える出来事。

この時 現場へ駆けつけたのは
日本人だけではありませんでした。

世界中から温かい支援の手が
差し伸べられたのです。

絶望から人々を救った外国人たちの
アナザーストーリーです。

日本人誰もが
忘れることのできない あの日。

救援と復旧に奔走したのは
日本人だけではない。

翌日には早くも 世界各国の救援隊が
日本に到着していた。

中でも最も大規模だった支援の一つ。

それは 地震発生から40時間後

仙台沖に 突如出現した
アメリカ軍の巨大空母。

これを機に 救援オペレーション
「トモダチ作戦」が始まった。

その裏には 驚きの物語がある。

状況は一刻を争っていました。

だから私は あの決断を下しました。

実は 3.11当日

在日米軍は
極めて動きがとりにくい状況にあった。

日本付近に展開する海軍の
主力空母ジョージ・ワシントンは

母港 横須賀で修理中。

海軍とは別組織で 非常事態への
対応能力が高い海兵隊の主力は

およそ5, 000キロ離れた国々に
散らばっていた。

そんな時 遠く西太平洋に
1つの艦隊がいた。

空母ロナルド・レーガンをはじめとする
アメリカ海軍第7艦隊。

韓国軍との合同軍事演習という
重大なミッションが課されていた。

しかし震災発生の直後。

空母の艦長が 驚きの指令を下す。

日本で大震災が起きたことを知った私は

すぐに 空母の行き先を
韓国から日本に変えました。

ほんの少し 船の向きを変えたわけです。

さまざまなリスクはありましたが

日本に向かうことが
正しい判断だと決意しました。

万一その間に不測の事態が起きれば
責任を問われる。

それも覚悟しての行動だった。

私は震災の1年ほど前まで
横須賀にいたんです。

日本で人々が救いを求めている時

すぐに助けに行くというのは
ごく自然な判断でした。

バークは艦隊全体の司令官である
ロバート・ギリアに

すぐにその判断を伝えた。

私もバーク艦長の決断に賛成しました。

我々は ただちに仙台沖へ急行しました。

日本政府からの正式な救援要請が
届いたのは そのあとでした。

そこで撮られた写真だ。

この光景に誰もが言葉を失った。

衝撃的でした。

水面に 木材や がれきが散乱していて

家一軒が丸ごと流されていました。

本当に信じられませんでした。

私たちは
誰か生存者がいないか捜しました。

しかし どんなに捜索しても

残念ながら
1人の生存者も見つかりませんでした。

全く土地勘のない この場所で
自分たちに何ができるのか?

アメリカ軍は 自衛隊災害派遣部隊との
作戦会議に臨む。

そこで知らされたのは
想像以上に広がっている津波の傷痕と

ライフラインが寸断され
一刻の猶予もない地域が数多くあること。

この時 高速道路をはじめ
内陸の道路は各所で分断。

仙台空港も 津波で水没。

大量輸送の手段がなかった。

そんな中 海の上の動く基地として

圧倒的な輸送能力を持つ空母に
期待がかけられた。

まず 私は自衛隊に

我々がここで
何ができるかを説明しました。

どんな装備があるか

ヘリなら何ができて
飛行機なら何ができるか。

さあ 何をすればいい?

自衛隊の要望はこうでした。

孤立した被災地の全てには
自衛隊の手が回らない。

そういう地域に
水や食料などを運んでほしい。

そこから 自衛隊と役割を分担して
作戦がスタートしたんです。

活動は ただちに始まった。

まず彼らが行ったのは
担当地域の地形を つぶさに調べること。

道路はつながっているか
海から接岸は可能か

どの地域が孤立しているのか?

これが各地区の状況を分析した画像です。

崩れた桟橋や
打ち上げられた船など

特徴的な目印を書き込み
全員で地形を共有する。

そして孤立地域を洗い出し
ヘリコプターで聞き取りに飛んだ。

やさしい日本語と 英語を併記した
質問用紙を作成。

身振り手振りも交えて 話を聞いて回った。

場所によって 必要な物資は違います。

ある地区では水が必要ですが

別の地区は
おむつが必要だったりします。

そうした状況を考えながら

それぞれの場所に何を運ぶかを
決めていったのです。

空母には 3, 000人が数か月暮らせるだけの
水と食料が備蓄されている。

それに加えて
各地から届く防寒用の毛布や衣類を

24時間体制で届けていった。

それはまさに途絶えかけたライフラインを
ぎりぎりで つなぎ続ける

必死の輸送作戦だった。

延べ50日に及んだトモダチ作戦で
米軍が運んだ物資は…

…と発表されている。

世界各地から差し伸べられた
支援の手は

必ずしも
大規模なものばかりではない。

小さな善意も
被災地を勇気づけた。

ここ台湾では あの日のことを今も

多くの人々が記憶にとどめている。

私も募金しました。

被害が本当にひどくて 心が痛みました。

新しい時計を買おうと
お金をためていましたが

時計を買わず 寄付したんです。

山あいにある この中学校でも

日本の被災地に送るための
募金が行われた。

その主人公となったのが
当時中学3年生だった この2人だ。

最初に募金を呼びかけた…

最後まで手伝った親友の…

2人にとって日本は
子供の頃からの憧れの国だった。

中でも陳さんは 大の日本好き。

ファッションや料理も
日本の雑誌を参考にしてきた。

そんな中学3年生の陳さんにとって

東日本大震災は ひと事とは思えなかった。

あの時 テレビのニュースで
3.11 東日本大震災の映像を見ました。

2日間 涙が止まりませんでした。

台湾の人々にとって
忘れられない記憶があった。

台湾中部で発生した…

2, 400人以上が亡くなった。

この時 世界で最も早く
被災地に駆けつけたのが

日本の救援隊だった。

真摯に復旧を助け
義援金を送った日本人の姿を

多くの人々が覚えていた。

そして最も被害が大きかったのが

陳さんの中学校がある 東勢地区。

ほとんどの人に 被災の経験がある。

自分にも 何かできることはないか?

そう考え始めた頃
街角で被災地への募金活動を見た。

みんなが募金などを
しているところを見たら

自分もできるんじゃないかと
思いました。

一緒にやってくれる仲間が欲しくて
一番親しかった許さんを誘ったんです。

でも 引っ込み思案な性格。

なかなか声をかけられない。

しかし数日後。

ふだんは近寄らない
やんちゃな男子たちに

恐る恐る声をかけた時…。

(外国語)

あまり真面目じゃない
やんちゃな男子たちが

「俺はやる お前たちもやれよ」と
言ってくれたおかげで

多くの生徒が
協力してくれるようになりました。

それまで真面目組と不真面目組は
ほとんど口もきかなかったんですが

募金をきっかけに
友達になっていったんです。

2人で始めた募金は
やがて中学校全体の取り組みに。

生徒たちは
お小遣いを節約して お金を捻出した。

これがクラスごとのリスト。

10元 およそ30円の
コインが多いのは

おやつを1回
我慢した生徒が多いから。

そして学校全体で…

…が集まった。

台湾各地で始まった募金の陰に
きっと多くの陳さんがいたに違いない。

テレビ各局も 日本への募金を呼びかける
チャリティー番組を制作。

こうして 200億円を超える
義援金が集まっていったのだ。

We love Japan!

支援の輪は世界中に広まった。

あの時 世界の人は どんな思いを
日本に届けようとしたのか?

中国 テント900張
使い捨てゴム手袋 325万組など。

フランス マスク97万2, 000枚
防護服2万セットなど。

ロシア 毛布1万7, 200枚
水3.6トンなど。

タンザニア
インスタントコーヒー 600缶。

バーレーン サッカーボール 123個。

遠い海外にあって
日本のことを思った人たちが

あの時 確かにいたのだ。

平成。

国の内外ともに
平和で穏やかであってほしい。

その願いは かなえられたのでしょうか。

数多くの苦難があり…。

数多くの希望があり…。

そして迎えた 令和という時代。

この新たな時代に
皆さんは どんな思いを込めますか?


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